「藤原あき」を知っていますか:「はじめに」に代えて
来年2019年は、春に統一地方選挙、夏に参議院選挙が続く「選挙イヤー」です。安倍政権の“驕り”に由来するとされる一連の問題、景気、財政再建、働き方改革などなど、選挙イヤーまでにどんな展開になっているのか、我々国民の感情、政権・与党に対する評価はどのようになっているのか。今年9月に予定されている自民党総裁選も気になるところです。
参議院選挙には通常、よく知られている通り、全国にくまなく組織票を持つ団体代表の候補者や、国民的知名度と好感度を持つスポーツ選手や芸能人など、俗に言うタレント候補者が登場します。そうした候補者らは、良くも悪くもびっくりするような大量得票で華々しくバッジを胸につけます。
私はこれまで、元市議会議員の経験から政治キャスターとして600人以上の国会議員をインタビューしてきました。その経験で言うと、タレント議員とよばれる政治家たちは彼ら彼女らなりの「タレント(才能)」を発揮し、国会議員という役割を十二分に「演じ」ています。国会内、党内における自分の「役柄」を認識し、政策に反映させるべく奮闘しています。
昭和20年、終戦の年に公布された新選挙法でようやく婦人参政権が認められ、翌年、焼け跡の中で行われた総選挙では、初の女性の投票率は67%でした。そして39人の女性代議士が誕生し、着物やもんぺ姿で初登庁を果たしました。
その時の女性議員の割合は8%と1割にも満たなかったのですが、それから70年以上過ぎた今も、女性議員の割合は衆議院1割、参議院2割です。
今年5月23日、せめて候補者だけは男女数をできる限り均等にすることを政党に求めるという「候補者男女均等法(正式名称は「政治分野における男女共同参画推進法」)が公布されましたが、さて実際の当選数はどうなりますやら。
女性タレント議員のロールモデル
時は遡って、昭和37年。高度成長期で所得倍増をかかげる池田勇人内閣の時代です。植木等の唄う『無責任一代男』『ハイそれまでョ』『スーダラ節』が街に流れ、サラリーマンが主役となり日本経済が上向きになっていく日本で、1人の女性に参議院議員選挙の候補者として白羽の矢が立てられました。
「藤原あき」という女性をご存じでしょうか。
彼女こそ、今も脈々と続くタレント議員の道を切り開き、その後に続く女性タレント議員のロールモデルとなった女性です。
藤山コンツェルンの2代目総帥として日本商工会議所会頭も務め、財界から外務大臣に転じたことで「絹のハンカチ」とも異称された藤山愛一郎の強い薦めにより、藤原あきは立候補し、見事に過去最高得票で当選します。
その背景には、東京オリンピック後の日本を担うことになる池田勇人、佐藤栄作、田中角栄、藤山愛一郎たちの自民党内の権力闘争が絡んでいました。その渦の中で、彼女の人生は翻弄されていきます。
しかし、藤原あきの人生において、国会議員だった期間はほんの一部分にすぎません。
あきは、生涯をかけて1人の男性を愛することに情熱を捧げた女性です。お相手は、「我らのテナー」として今も名を残す、日本が世界に誇る天才的オペラ歌手、藤原義江でした。
世紀の不倫
三井財閥の事業に「実業の武士道化」を提唱し、今で言う「プロ経営者」として明治中期に三井の実質的トップに立ち、事業を牽引してきた中上川彦次郎(なかみがわ・ひこじろう)の名は、今も「三井中興の祖」として記憶されています。福沢諭吉の甥でもあるその彦次郎の10人の子供たちの中で、あき1人だけが、お妾さんの子供として明治30年8月10日に生まれました。
彦次郎は47歳でこの世を去りますが、「東洋一の給与取り」と言われた彼の遺児たちは、金銭的に何不自由なく日本の上流階級に身を置きます。
一流料理屋の料理人を雇い日々提供される食事。お女中が子供たちに1人ずつ付いて箸の上げ下ろしまで世話をする生活。永田町の豪邸の庭にはテニスコートが2面もある生活――。桁外れで豪快な考え方を持つ彦次郎の生活様式は、主なき後も継承されていました。
そんな贅沢な環境にいても、あきは自分を見失わず、将来は女流画家にと夢を描き、実際に女流画家の弟子となり、将来を嘱望されます。
容姿端麗、明眸皓歯、身につけるものや小間物のセンスにも秀で、女子学習院でも成績優秀で、「院内三大美女」ともうたわれました。
そんなあきの人生に、一大変化が起こります。16歳での縁談、一回り以上歳の離れた医師でもある大学教授への嫁入り。あきは夫にも結婚生活にも馴染めず、授かった娘2人とともに7年で別居にふみきります。
そして新たに始まった娘たちと3人の生活。望まぬ結婚だったとはいえ夫にすべてを教え込まれ、まだ23歳という若さに人肌恋しい寂しさを思い、自分は生まれてから人を愛したこともなければ愛されたこともないという現実に茫然とし悲観するあき。
そんな時、友人と出かけた観劇で、客席の数列前に座る青年と運命的な出会いをします。それが、洋行帰りで売り出し中のテナー歌手、藤原義江でした。この後に世界的な天才オペラ歌手として華やかな注目を集め、現在も活動を続けているわが国最古の本格国産オペラ上演団体「藤原歌劇団」を創設することになる彼は、当時、「我らのテナー」として海外でも注目を集め始めている頃でした。あきはすっかり贔屓(ファン)になりました。
やがて義江もあきの美しさや聡明さに惹かれ、一線を越えてゆきます。しかし、あきはまだ正式な離婚ができておらず、当時で言えば不倫というより「姦通罪」。たちまち2人の関係は、不倫、不貞、姦通といったゴシップネタとして、世上大いに話題となるのです。
美容部長、国民的タレント、そして国会へ
藤原あき、あるいは藤原義江をご存じの方は、このあと2人の人生がどう絡み合い、有為転変していくのかもご記憶かもしれません。もちろん、あきの数奇な運命は、むしろここから思いもかけぬ方向へと進んでいくのです。
時代は昭和に移り変わり、2.26事件、日中戦争、大東亜戦争と暗い時代に突き進みます。すでに昭和9年、「藤原歌劇団」を創設していた義江の活躍も目を見張るものでしたが、時代がオペラなど否定しました。
そして戦後、音楽学校を卒業して歌劇団に入団してきた若く美しいプリマドンナと義江、自身との愛憎をめぐる複雑な関係に疲れ果ててゆくあき――。
しかし、壮年に達したあきは、不思議な巡り合わせから、さらに新たな人生の扉が開かれることになります。
女ならば誰もが憧れる理想の男を手に入れたあきは、すでに多くの女性の羨望の的でした。戦前から様々な婦人雑誌に登場し、着物の着こなしや美容法、日本女性の身のこなしから仕草・マナーまでを披露し、女性たちのファッションリーダーだったあきは、その後「資生堂」に「美容部長」という肩書きで迎え入れられ、「資生堂美容学校」の初代校長も務めます。
高度成長期の中、女性の活躍も増え、おしゃれをする女性たちで街は溢れます。そんな時代の流れで始まったのがテレビジョン放送。
ニュース、コマーシャル、クイズ番組。小さい箱から流れてくる映像に人々は虜になります。そしてあきにも、NHKからクイズ番組のレギュラー出演の依頼が舞い込み、やがて国民的人気タレント、そして国会議員へ――。
藤原あきという女性は、時代に翻弄された一面もありますが、知性と美貌と信念、それに焼けつくほどの激しい愛情で明治、大正、昭和という激動の時代を生き抜いた人です。
そんな彼女の波瀾万丈の人生と、明治から昭和にかけての激動の時代を、同じ女性の目線から、そして政治の道でも先鞭をつけた大先達の後輩の1人として、これから読者のみなさまとともに辿っていきたいと思います。
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