同性愛者から愛を告白されても誰かに相談するのはNG? 国立市「多様な性」条例に異議あり

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 同性愛者から愛を告白され困惑しても、それを誰かに相談することが許されない――。そんなおかしな条例が本年4月、東京都国立市で施行された。筑波大学准教授の星野豊氏は「国立市の関係者が、善意で新条例を制定したことは一斉否定しない」としつつ、その条例に疑問を投げかける。(以下、「新潮45」2018年7月号より抜粋、引用)

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 本年4月より、「国立市女性と男性及び多様な性の平等参画を推進する条例」が施行された(以下、単に「新条例」と略称する)。新条例の中では、これまで多くの機関により推進されてきた男女平等参画に関する規定のほか、性的指向、性自認に関する定義(2条5号、6号)や差別の禁止(8条1項)、及び、性的指向や性自認に関する公表の自由の保障(3条2号)と本人の意に反した公表の禁止(8条2項)が明記されている。

 国立市の担当者はインタビューに対してこう答えている。男女平等参画に関する条例の改正作業を進めている過程で、性的指向及び性自認の問題についても差別や偏見が根強く存在していることがわかった。また、性別や性的指向を公表しなければならないような社会的圧力がかかりやすいことも指摘され、目からうろこが落ちる思いだった。このため、性的指向や性自認も個人の権利であるという基本的な方向性を明確に規定して市民の意識を向上させ、今後どのような問題が生ずるかを検討していきたい――。新条例制定に携わった国立市の関係者が、市民の平等参画について真面目に考えていること、及び、「多様な性」に対する差別や偏見が生じない社会を形成しようと努力していることは、疑いのないところだろう。

 しかしながら、今回施行された新条例は、その前提となる考え方からして、差別や偏見のない社会を本当に目指しているのか疑問である。また、新条例で具体的に規定された権利や禁止行為についても、この規定の仕方では、むしろ逆の結果を合法化させかねない危険すら含まれていると言わざるを得ない。

「女性」「男性」と「多様な性」

 個々の規定より先に条例全体を見てみると、新条例は、「市民の平等参画」と、「個人の性的指向及び性自認の尊重」という、次元の異なる問題を、無理につなげてしまっている。これは、「女性と男性及び多様な性の平等参画……」という新条例の名称に端的に現れている。

 新条例が「多様な性」として典型的に考えているのは、いわゆる「LGBT」と呼ばれる、同性愛者、両性愛者、性転換者などである。しかしながら、これらの者たちの圧倒的多数は、「女性」「男性」という区分についてはどちらかに属しているわけであり、「女性」「男性」以外の「第3の性」として「多様な性」があるわけではない。

 従って、「女性」「男性」「多様な性」と並べ、それらが「平等参画」する、という新条例の名称は、「多様な性」を既存の「男女」と異なるものと位置づけているとしか考えられず、これは、LGBTに対して従来から存在する差別感覚あるいは偏見そのものである。国立市は、「今後生ずる問題点」の筆頭として、新条例自体の持っている差別感覚や偏見を是正するところから、検討を始めるべきであろう。

 そもそも、「平等参画」とは、各市民が自分の置かれた状況の下で自分の能力を自分の意思により活用し、仕事や日常生活における他者との協調を通じて、市民社会を作っていくものである。これに対して、「多様な性」における性的指向や性自認の問題は、社会の中における個人の生き方に対して、他人がどのように接するかという点が重要であり、同じく「平等」と言っても議論の次元が明らかに異なる。

 このように、新条例は、「多様な性」という独立した重要な問題を、「平等参画」という別次元の問題に無理に結びつけたことから、本来目指した筈である「多様な性」に対する差別感覚や偏見の是正については、出発点から既につまずいていると言わざるを得ない。(中略)

性的指向「暴露禁止」の落とし穴

 新条例のさらに深刻な問題は、8条2項の「何人も、性的指向、性自認の公表に関して、いかなる場合も、……本人の意に反して公にしてはならない。」という規定にある。この規定は、新条例に関して多くのメディアが取りあげており、新条例の最も重要な部分と考えられているようである。

 この規定は、一橋大学で近年発生した大学院生の自殺をめぐって、損害賠償請求訴訟が提起された事件に影響を受けたものとされている。この事件では、同性愛者であった男子学生が、友人として親しくしていた男子学生に対して愛情の告白をしたところ、「これからも友達のままでいよう」との返答を受け、友人関係が継続していた。その後、告白を受けた男子学生は、告白した男子学生もメンバーとして加わっていた大学の友人間のSNS上で、「おまえがゲイであることを隠しておくのムリだ。ごめん」との投稿をした。このため、告白をした男子学生は、同性愛者であることを周囲の友人たちに知られたと感じて強い精神不安となり、大学や弁護士等に対して様々な相談を行っていたが、SNSでの前記投稿から2カ月後、大学内の建物から投身自殺を図って転落死した、というものである。

 遺族は、SNSに投稿した学生個人に対して、同性愛者である事実を本人の承諾なく第三者に公表したことが不法行為に当たるとして損害賠償を求めると共に、大学に対して、同性愛者であることを周囲に知られて精神不安となった男子学生が相談してきた際に適切な対応を怠ったために、男子学生が自殺するに到ったとして、損害賠償を求めて提訴した。この訴訟については、SNSで投稿した学生個人と遺族との間で、本年1月に和解が成立しており(内容は非公開)、大学と遺族との間で、現在も審理が続いているようである。

 具体的な事件における個人同士の関係について軽々に論ずるべきではないが、この事件は、男子学生が男子学生に告白したことによって本人の性的指向が明らかになったものであるから、本人が性的指向について全く公開を望んでいなかったにもかかわらず、他の者が別の機会に知った事実を基に公表しあるいは差別をしたという事案ではない。すなわち、この事件について考える際には、「本人の意に反して性的指向を公表した」ことの対処に加えて、「本人の意に反して他人の性的指向を知らされた」ことの対処を、同時に考えていく必要がある。

 この点について、多くの論者は、「他人の性的指向について、本人から告白を受けた」場合の対処としては、本人の意思を確認しつつ、信頼できる第三者に相談しながら適切な関係を形成していくべきだ、と指摘している。この指摘からすると、本件で告白を受けた男子学生は、本人の意向を確かめずにSNSで本人が同性愛者であることを投稿した以上、本人に対する配慮不足だ、ということになるのであろう。

 しかしながら本件は、同性愛者の学生の側が、愛情を告白したことのほか、親密な関係になろうとして様々なことをしてきたため、告白を受けた側の学生が自分自身に留めておくことが心理的にできなくなり、第三者に知らせる行動をとった、との主張が、告白を受けた学生の側からなされている。前述のとおり、この学生と遺族との間では和解が成立しており、この点について裁判所の認定があるわけではないが、仮に告白された学生の主張に沿った事実があったとすると、告白した本人にも同時に判明するようなSNS上の投稿として第三者に知らせたという方法が、本人の感情に対する配慮に欠けると言うことはできても、それが果たして「人権問題」として「法的責任」の対象となるかは、何とも言えないように思われる。

相手方の人権をどうするか

 誰が誰を好きになるかが個人の自由であるならば、他人からの告白に対してどのような感情を持つかについても、告白された側の自由として同様に尊重されるべきである。告白をした側が同性愛者であるとの理由だけで、告白を受けた側が同性愛者に対する配慮の義務を負い、告白を受けた事実を同性愛者の意思に従って秘密にしなければならないとすることは、対等な者同士の関係としては説明ができない。自分自身の性的指向がどの程度他人に受け容れられるか不明であることは、全ての者が負っているリスクである。同性愛者についてそのようなリスクが特に高いというのであれば、同性愛者の側がそのことを自覚し、信頼できる相手方を慎重に選ぶことが、大切であるように思われる。

 このように、「多様な性」に関する性的指向や性自認の問題では、「本人の人権」だけでは話が終わらず、「相手方の人権」についても同程度の配慮が必要となる。しかし、新条例8条2項は、いわば一方的に、他人の性的指向や性自認についての公表を禁止しているだけであるため、今後どのような運用が行われていくかは、極めて不安定と評さざるを得ない。例えば、多くの論者が指摘していることに従い、当事者や関係者が「相談」するための窓口を設置するとした場合、その窓口が「男女平等参画」の担当であることが適切かは、直観的に疑問が生ずる。また、新条例では、性的指向や性自認に関する「守秘義務」を、条文上全員に課していることになるが、守秘義務のある者同士における「情報交換」や「相談」は、不特定多数の者に情報が拡散されないことが期待できる以上、新条例の言う「公表」に当たらないと解釈すると、新条例による「公表の禁止」は実質的に空文化してしまう。

 そもそも、性的指向や性自認は、優れて個人の内心の問題であり、国家や自治体が法律や条例で個人の感情に基づく行動を規制しようとすること自体、根本的に間違っているように思われる。誰が誰を好きになるか、周囲や社会がそれを受け容れるか否かは、法律や条例でどのような規制をかけたとしても、為政者の思惑とは異なる方向に進むものであり、どのような社会が最も望ましいかは、誰にも分からない。現に、出身地、経済力、学歴、年齢、身長、人種、国籍、家柄、職業、所属や立場、前科、病歴、障害、余命等については、全て「個人の自由」である筈だが、見えない規制が「社会常識」として広く存在している。しかし同時に、その常識を破ろうとする個人の行動も時代場所を問わず必ず生ずるものであり、そのような個人の「常識外れ」の行動が、新しい社会を作る原動力となっていくのである。(後略)

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 全文は「新潮45」2018年7月号に掲載。新条例の基本理念に潜む問題点や危うさを、6ページにわたりさらに詳しく解説する。

星野豊(ほしの・ゆたか)
筑波大学准教授。1968年東京都生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科民刑事法専攻博士課程単位取得退学。著書に『信託法』『先生のための学校トラブル相談所』『学校トラブル』など。

新潮45 2018年7月号掲載

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