スポーツも学問も「西高東低」に生き残りをかける「秋田県」の挑戦

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 前回、城下町に由来する都市では、剣道や柔道などの武道が盛んである一方、球技が弱いことをご紹介した(2018年5月14日「『剣道』薩摩『柔道』阪神という発展の『地域格差』を考察する」)。野球、サッカーに代表される球技の多くは海外から導入された。神戸や横浜など港町が強いのも頷ける。

 勿論、例外もある。例えば秋田県だ。その経緯が面白い。今回は秋田県のスポーツ事情から、日本の近代化を考えたい。

かつてはラグビーやバスケの強豪県

 秋田県といえば、どのようなイメージをお持ちだろうか。おそらく、過疎で高齢化した地域とお考えだろう。

 2017年10月1日現在の秋田県の高齢化率(65歳以上人口の割合)は36%で全国トップだ。前年より0.9ポイント増加し、過去最高を更新した。

 人口減少も著しい。近年は毎年1万3000人程度減っている。

 ただ、この傾向は最近始まったわけではない。秋田県の人口は、1956年の約135万人をピークに減少を続け、2017年4月には100万人を割り込み、2045年には60万人になると予想されている。

 この秋田県が、いくつかの球技で日本をリードしてきた。

 例えば、ラグビーでは県立秋田工業高校が過去に15回、全国高等学校ラグビーフットボール大会(花園大会のこと)を制している。高校別では史上最多だ。関東地方の高校の優勝回数の合計が20回だから、実績が突出しているのがお分かりいただけるだろう。

 バスケットボールでも秋田がリードしてきた。県立能代工業高校は22回、全国高校選手権で優勝している。これは過去70回の大会の約3分の1を制したことになる。歴代優勝回数2位の中央大学附属高校(東京)の6回を大きく上回る。

 かつて秋田は野球も強かった。全国高校野球選手権第1回大会で秋田中学は決勝に進出し、京都二中に2-1でサヨナラ負けしている。

 秋田は、かつて佐竹氏が治めた20万石の城下町だった。現在も、その名残がある。秋田県知事を務める佐竹敬久氏は、佐竹家の分家で角館を統治した佐竹北家の第21代当主である。

 前回も述べたが、このような地域では武道が盛んだ。秋田も例外ではない。例えば剣道の場合、過去64回の高校総体で秋田県勢は3回優勝している。東北地方で秋田県以外が優勝したのは、1959年の県立小牛田農林高校(宮城県)だけだ。

 城下町で武道が盛んなのは、システムができあがっているからだ。例えば、秋田県では毎年3月下旬に魁星旗争奪全国高校剣道大会が開催される。主催は『秋田魁新報』などだ。『西日本新聞』が主催する玉竜旗高校剣道大会と並ぶ地方主催の有名な大会だ。

 秋田では剣道を習う子どもたちが、身近で一流の選手に接することができる。この状況は、甲子園球場や花園ラグビー場が位置する近畿地方で野球やラグビーが盛んなことと相通じるものがある。春夏の甲子園大会は大阪発の新聞社である『毎日新聞』、『朝日新聞』、花園での高校ラグビー大会は『毎日新聞』が主催しているのも、状況は同じだ。

明治政府に厚遇されて発展

 ではなぜ、秋田県でラグビーやバスケットボールなどの球技が盛んになったのだろうか。これも歴史が関係している。

 秋田県の歴史で特記すべきは、戊辰戦争で秋田藩(久保田藩)が新庄藩や本庄藩とともに官軍についたことだ。

 秋田藩は同藩出身の平田篤胤の影響で尊王論が強く、仙台藩からの使者を斬り殺したのがきっかけとなった。奥羽越列藩同盟は秋田藩と交戦し(秋田戦争)、庄内藩、仙台藩、米沢藩、南部藩などの戦力を分散せざるを得なくなった。秋田藩が奥羽越列藩同盟に参加していれば、官軍の被害は遙かに甚大だったろう。

 明治維新以降、秋田藩は厚遇される。この結果、秋田は順調な発展を遂げる。1873年(明治6年)の人口は3.8万人で、全国で19位だった。東北地方では5.2万人の仙台(全国9位)についで2位だ。現在、秋田市の人口は30.8万人で、いわき市、郡山市に抜かれて第4位だ。

 教育機関の整備も早かった。現在の県立秋田高校である秋田中学ができたのは1882年(明治15年)。1873 年(明治6年)に設立された、変則小学校である日新学校内の洋学科が前身という。

 ちなみに宮城県に尋常中学ができるのは1892年(明治25年)、福島県に福島中学ができるのは1884年(明治17年)。会津やいわきでなく、宿場町であった郡山に作った。現在の県立安積高校だ。このあたり、明治政府のやることはえげつない。

鹿角地方の編入も契機に

 秋田の発展を語る際に欠かせないのが、鹿角地方の存在だ。

 この地域には尾去沢、小坂など優良な鉱山が存在した。

 尾去沢は別子銅山と並ぶ我が国屈指の銅山で、岩崎家および三菱合資が経営した。1978年に閉山となっている。

 小坂は銀鉱山として有名で、明治2年に南部藩から官営になり、1884年(明治17年)に藤田組(現DOWAホールディングス)に払い下げられた。1901年(明治34年)には銀の生産高が日本一となり、その後、銅、亜鉛、鉛も産出した。1990年まで採掘が続いた。

 鹿角地方は、豊かで教育レベルも高かった。この地からは多くの人材が出ている。戦前、我が国を代表する東洋学者だった内藤湖南や狩野亨吉(第一高等学校校長、京都帝国大学初代文科大学長)などがその代表だ。

 江戸時代まで、この地域を治めたのは南部藩だった。内藤湖南の生家は、南部藩から派遣された城代の桜井家に仕えた。湖南の湖は、琵琶湖でなく、十和田湖に由来する。

 戊辰戦争で南部藩は秋田藩と戦った。津軽藩が態度を曖昧にし、最終的に官軍に与したこと、仙台藩は最初反官軍だったが、すぐに腰砕けになったこととは対照的に、南部藩は最後まで秋田藩と戦った。大館に攻め込み、大館の町の3分の2が灰燼に帰したと言われている。

 戊辰戦争後、鹿角地方は秋田県に編入された。鹿角の士族は、一時的にみな農民となった。一方、秋田県は鉱山を手に入れた。

 明治政府は鹿角の鉱山開発に力を注いだ。1910年(明治43年)には秋田鉱山専門学校を設立した。日本で唯一の官立鉱山専門学校で、秋田県内初の高等教育機関だ。現在の秋田大学の前身である。

 秋田鉱山専門学校は、ドイツのフライブルク大学を模範とし、東京帝大や京都帝大から教授を招いた。

上方との交流でスポーツも流入

 江戸時代から、東北本線・奥羽本線が開通する20世紀初頭まで、秋田は北前船を通じて京都・大阪と交流した。当時栄えたのが、土崎港や能代港だ。司馬遼太郎は「出羽と呼ばれた秋田県と山形県には、上方文化が沈殿した」と述べている。

 前回も紹介したが、戦前まで日本のラグビーを牽引したのは京都勢だった。全国高校選手権では、1929年(昭和4年)の第12回大会で慶應義塾普通部が優勝するまで、同志社中学など京都勢が11連覇した。

 私は、このようなネットワークを通じて、秋田県にラグビーが持ち込まれたのではないかと考えている。秋田鉱山専門学校の関係者は、秋田中学、秋田工業、大曲農業の生徒にもラグビーを教えた。1925年(大正14年)にはすでに県大会が開催されていた。旧制秋田中学と秋田工業がライバルとして、鎬を削った。

 前述したように秋田県内には藤田、三菱などの財閥が鉱山を有していたが、系列の会社にはラグビー部が存在した。

 新日鐵釜石は、かつて社会人ラグビーで無敵の強さを誇った。秋田高校出身で、この地域の歴史に詳しい医師の遠藤希之氏は「隣接する秋田県から鉱山会社を介してラグビーが伝わったようです」と言う。

 鹿角の鉱物資源に目をつけた明治政府は盛岡ではなく、秋田に投資した。これが、この地域の民度を向上させた。ラグビーも盛んになった。賊軍とされた関東や東北地方の藩校が潰され、高等教育の伝統が途絶したのとは対照的だ。

 秋田県の教育レベルは今でも高い。秋田高校の2018年の東大合格者は13人。全国40位で、東北地方では仙台二高(18人、29位)についで2位だ。卒業生には2001~2005年まで東大総長を務めた佐々木毅氏らもいる。

秋田の衰退と九州勢の伸張

 ところが、この秋田県が衰退しつつある。近年、スポーツも振るわない。秋田工業高校のラグビー部が最後に優勝したのは1987年、能代工業高校のバスケットボール部が最後に優勝したのは2004年だ。「東京一極集中」という人もいるが、必ずしもそうではない。

 2000年以降に開催された18回の大会で、全国高校ラグビー大会で優勝したのは西日本18回(近畿12回、九州6回)、関東1回だ(2010年に2校優勝あり)。1990年代に関東勢が4回制覇したのとは対照的だ。

 同じく、バスケットボールは西日本が16回(九州10回、四国2回、北陸3回、近畿1回)で、東北、関東勢は1回ずつしかない。1990年代は関東が5回、東北が3回制覇した。

 21世紀に入り、九州勢が急成長しているのがわかる。九州は剣道や柔道など、武道が強かった。ところが近年強化されているのは球技だ。

 この理由ははっきりわからない。私は、中国との距離が近いという地政学的な理由が関係しているのではと考えている。

西高東低の国際交流

 日本人は、首都圏が成長するのは東京に近いからだと考えている。同じ事は東アジアでも言えるはずだ。

 有史以来、東アジアをリードしてきたのは中国だった。この間、近畿から九州が日本の中心だった。大陸の進んだ文明を受け入れるのに有利だったのだろう。

 近代日本の礎が築かれた19世紀半ばから20世紀は例外だった。清朝末期から鄧小平の改革開放まで中国は迷走した。この間、東アジアをリードしたのは英米で、昭和初期から敗戦までを除き、日本は英米と同盟を結んだ。この際、東アジアの地理的条件はあまり影響しなかった。この間、東京を含む首都圏が成長した。21世紀に入り、状況は一変した。

 ところが、政府やマスコミは「東京一極集中」、「衰退する地方」という視点でしか議論しない。私は実態を反映していないと思う。東北地方と九州を地方という一括りで議論するのはナンセンスだ。

 図1は、都道府県の人口あたりの外国人旅行者の受け入れ数を比較したものだ。東北地方、東京都と千葉県以外の首都圏の状況が悲惨なことがわかる。中国や東南アジアが発展すれば、この差はますます大きくなるだろう。

 2017年に各空港が受け入れた外国人の数は、多い順に成田空港764万人、関西空港716万人、羽田空港375万人、福岡空港221万人、那覇空港163万人だ。注目すべきは対前年比だ。羽田空港が+15%、成田空港が+12%であるのに対し、関西空港は+18%、福岡空港は+35%、那覇空港は+20%だ。この状況が続けば、成田空港や羽田空港はアジアへの玄関口としての地位を失う。

 すでにクルーズ船での外国人受け入れは、圧倒的な西高東低になっている。2017年、海外からのクルーズ船は我が国に2767回寄港し、対年前比37%の増加だった。シェアは東日本20%、西日本が80%だ。特に多いのは沖縄19%、九州37%である。

留学生受け入れで効果を上げた大分県

 情報化社会で競争力を維持していくには海外との交流が欠かせない。特に若者の受け入れは重要だ。この点でも九州勢が活躍している。

 人口10万人あたりの留学生受け入れ数は、京都府と大分県がトップを争っている。2016年度の人口10万人あたりの留学生数は京都府308人(対前年比8.5%増)、大分県303人(同5.0%増)だ。第3位は東京都の246人(同4.4%増)である。

 大分県別府市に留学生が多いのは、2000年に立命館アジア太平洋大学(APU)が開学したからだ。今年、第4代学長にライフネット生命創業者の出口治明氏が就任して話題になった。

 2018年5月1日現在、5636名の学部学生、190名の大学院生が学んでいるが、このうち2721人、185人が外国人だ。大分県の留学生の80%以上をAPUが受け入れていることになる。

 APUは大分県および別府市が誘致した。総事業費297億円に対し、大分県が150億円、別府市が42億円を助成した。更に別府市は42ヘクタールの土地を無償譲渡した。大分県、別府市にとって乾坤一擲の大事業だったろう。

 当時、APUの誘致をリードしたのは、平松守彦知事(1979~2003在任)だ。大分中学から第五高等学校、東大法学部を経て旧商工省に入省した通産官僚で、佐橋滋の流れを汲む統制派官僚だ。国がやるべきは通貨・国防・外交政策で、福祉や教育は地方に任せるべきと考えていた。また、九州は地理的な強みを活かしてアジアと交流すべき、が持論であった。APU誘致は平松知事の大きな業績だ。

 すでに地域への効果は出始めている。別府市はAPU開学後、人口減少が止まった。これは若年者人口が増加したためで、別府市での15~19歳人口は5.6%、20~24歳人口は7.1%に増加した。これは全国平均の5.1%、5.8%を大きく上回る。

 大分県は現時点で、年間202億円程度の経済効果があったと報告しているが、今後、卒業生のネットワークが拡がれば、付加価値はますます高まるだろう。

「小さく産んで大きく育てる」国際教養大学

 秋田県も負けてはいない。既に、2004年に秋田市内に国際教養大学を開校している。秋田県が設立した公立大学法人だ。初代学長に東京外国語大学の学長を務めた中嶋嶺雄氏を迎え、海外とのコミュニケーション能力を重視したカリキュラムを組んだ。「英語をはじめとする外国語の卓越したコミュニケーション能力と豊かな教養、グローバルな視野を伴った専門知識を身に付けた実践力のある人材を養成し、国際社会と地域社会に貢献すること」と理念に掲げている。

 国際教養大学には世界中から留学生が来ている。2018年4月1日現在、49カ国・地域の190大学と連携し、正規留学生22人、交換留学生153人、派遣留学生187人を受け入れている。

 APUとの違いは規模だ。2018年4月1日現在、国際教養大の入学定員は175人で、在籍する学生数は884人に過ぎない。APUの6分の1の規模だ。国際教養大は国際教養学部が1つしかない単科大学なのが、その理由だろう。

 規模の違いは、日本を代表する学校法人である立命館と、秋田県の経験の差が出たのかもしれない。経緯はともかく、秋田県は小さく産んで大きく育てる戦略をとったことになる。このあたり、時間を金で買った大分県・別府市と対照的だ。九州と東北地方の県民性を反映しているように感じる。

 進学校、名門大学はスポーツなど課外活動が盛んなところが多い。それは知的作業には集中力が必要で、漫然と長時間続けても効率が上がらないためだろう。前出の出口治明氏は、「日本の生産性が上がらないのは、製造業で確立した長時間労働体制を続けているから」と言う。私も、その通りだと思う。

 大学生活の生産性を上げるには、課外活動の充実が欠かせない。スポーツは課外活動の柱の1つだ。スポーツを通じ、心身が鍛えられると同時に、世界中の若者と交流できる。「スポーツは若者の第2の言語」という人もいる。

 国際教養大学ホームページの「キャンパスライフ」の「クラブ・サークル活動」でトップに掲載されているのはラグビー部の写真だ。中心に写っているのは留学生だ。さらに田中喜悦フェルナンド君が「社会人チームへの参加や地元の高校生との合同練習を通して、大学と地域、そして留学生と正規学生との交流の輪を広げることも活動目的のひとつです」とコメントしている。田中君のコメントは正鵠を射ている。

 国際教養大学は秋田の資産を活用し、グローカル(グローバル+ローカル)に活躍する人材を育てつつある。江戸時代以来、この地域は国内外と交流し、独自の文化を築き上げた。その伝統が今でも生きている。

 少子高齢化が進むわが国で、中国との距離が遠い東北地方は不利な状況にある。世界はアメリカ1強から米中の2強体制に移行する。アジアのバランスも変わる。どうすれば、この時代に東北地方の都市が生き残れるか、真剣に考えねばならない。秋田県の試行錯誤に注目している。

上昌広
特定非営利活動法人「医療ガバナンス研究所」理事長。
1968年生まれ、兵庫県出身。東京大学医学部医学科を卒業し、同大学大学院医学系研究科修了。東京都立駒込病院血液内科医員、虎の門病院血液科医員、国立がんセンター中央病院薬物療法部医員として造血器悪性腫瘍の臨床研究に従事し、2016年3月まで東京大学医科学研究所特任教授を務める。内科医(専門は血液・腫瘍内科学)。2005年10月より東京大学医科学研究所先端医療社会コミュニケーションシステムを主宰し、医療ガバナンスを研究している。医療関係者など約5万人が購読するメールマガジン「MRIC(医療ガバナンス学会)」の編集長も務め、積極的な情報発信を行っている。『復興は現場から動き出す 』(東洋経済新報社)、『日本の医療 崩壊を招いた構造と再生への提言 』(蕗書房 )、『日本の医療格差は9倍 医師不足の真実』(光文社新書)、『医療詐欺 「先端医療」と「新薬」は、まず疑うのが正しい』(講談社+α新書)、『病院は東京から破綻する 医師が「ゼロ」になる日 』(朝日新聞出版)など著書多数。

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Foresight 2018年6月7日掲載

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