「二刀流」「二足のわらじ」にはどんな効能があるのか 大谷翔平と永田和宏京大名誉教授の共通点

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二刀流と二足のわらじ

 大谷翔平の「二刀流」は当初こそ不安の声があがったものの、あまりにも素晴らしい実績によって、そうした声は聞こえなくなってきた。いまだに「一つに絞れ」と公言しているのは、張本勲氏を代表とする、かつてのトッププレイヤーたちくらいかもしれない。

 大谷のようなタイプの二刀流は空前絶後に近いが、異なる業種でそれぞれ実績をあげる「二足のわらじ」であれば、比較的成功例も多い。
 ビートたけし(芸人、映画監督)、又吉直樹(芸人、作家)、石原慎太郎(小説家、政治家)あたりは、多くの人が知る「二足のわらじ」の成功例だろう。

 一般にそこまで有名ではないかもしれないが、永田和宏教授もまた「二足のわらじ」を続けてきた人物である。永田氏の「一足」は京都大学名誉教授。専門は細胞生物学だ。
 そしてもう「一足」はといえば「歌人」。それも趣味、道楽のレベルではない。歌人としても日本を代表する存在で、宮中歌会始詠進歌選者もつとめているほど。

「二足のわらじ」の中でも、サイエンスと日本古来の文化というのは珍しいケースだろう。そのせいで、取材などでも「両者にいったいどういう関係があるのですか。ひとりの人間が二つを同時にやるという必然性はどこにあるのでしょうか」と聞かれることはしょっちゅうだったという。
 この質問に若い頃は、「どちらも人の知らないところを、なんとか自分だけは知りたい。そのために実験をしたり、想像力を働かせたりして、自分なりの解答を得るところは共通しているでしょうか」といった理屈で答えていたという永田氏。
 しかし、かなり年を重ねてから、実は何の理由も必然もなく、両方を捨てられずにやってきたということにこそ意味がある、と考えるようになったという。つまり、そこに無理やりな解釈を求める必要を感じなくなったということだろう。

 もっとも、そうはいっても、「二足のわらじ」をはいてきて、良かったと思うこともあるようだ。新著『知の体力』では、その効能を語っている。以下、同書から永田氏なりの「二足のわらじ」論をご紹介しよう。

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風通しの悪さからの解放

 さすがにこれだけ長く二つのことをやってくると、それなりに良かったと思えることもある。その一つは、〈自分のいる場はここだけ〉なのだという閉塞感からの自由である。小さな一つの世界だけに閉じこめられる、風通しの悪さからの解放ということである。

 会社でも学校でも、所詮は自分のいる場所は狭い空間である。いくら大会社でも、日々の生活空間は、たとえば営業部といった〈部〉、あるいは〈課〉、そしてその一つのグループといったところだろう。メンバーもせいぜい10人くらいが日々の労働仲間である。

 その狭い場所に同僚や先輩・上司がいて、ときに評価をされたり、ひどく叱責されたりもする。あるいは仲間から疎んじられたりもする。そんななかで、自分に対しての悪い評価は、全否定の観を呈することが多く、人格のすべてを否定されたようで、ひどく落ち込む。

 この場所だけしか知らない人間にとっては、ここだけが生きる場。ここで否定されたらほかに逃げ込む場所はない。友人関係では、せいぜい数人の友達との仲間づきあいが、世界のすべてであるかのように勘違いしてしまうと、その中の人間関係、その仲間の評価と好き嫌いだけが〈絶対〉となってしまって、これまた逃げ場がない。子供たちの自殺の大きな原因がここにある。

 そんなことはないのだよ、すぐ横には別の世界があって、別の涼しい風が吹いているということを、どのように知らしてやることができるか。

 私の息子は、中学1年の時に、アメリカから帰ってくることになった。すぐに滋賀県の地元の中学に編入されたのだが、当然のことながら、アメリカの自由な学校生活になれてきた息子は、厳しい規則ずくめの地方の学校にはなじめない。活発によくしゃべり、思いつくままに好きなことを言っていた少年が、次第に口数がすくなくなり、元気がなくなっていくのが親の目にもはっきり見えた。

 そこで私の妻ががぜん頑張ったのである。電車で40分ほどの場所にある、別の私立中学の話を聞きつけて来た。すぐにその中学に行って先生と話をし、授業参観などもさせてもらってすっかり気に入った。2年の時から、その中学に通うことになったが、息子の変わり方は劇的であった。2週間ほどで、すっかり活発さを取り戻し、馬鹿なことをおもしろがれる元の子にもどってしまったのである。

 特に子供たちのいじめの問題を考えるとき、この「ここだけがすべてではない」というメッセージの重要性にまわりの大人たちは気づくべきだろう。一つは具体的な「空間」としての別の場所の存在。いまはこのクラスで嫌な奴といつも顔をあわせなければならないけれど、もし嫌ならいつでも転校したっていいんだよ、とサジェストできるかどうか。

 空間的な別の場所のほかに、もう一つ時間的な別の場の存在も大切な要素であろう。小さな閉鎖空間の息苦しさは、これがいつまで続くのかという展望の無さにもよることが多い。あと3カ月だけ我慢をすれば、この場所から抜け出せるということがわかっていれば、なんとかその3カ月は耐えられるものである。

 いまの場所に耐えられずに悲劇的な選択をするのは、将来いつここから抜け出せるかの展望が持てないことによる場合が多い。具体的な時間を示してやれること、その時間は君の人生の長さのなかのほんの一瞬にも近い短さであることを示唆してやれること、そんな時間が運んでくれるであろう別の世界の存在にもまた目を向けさせてやりたいものである。

 この場所に君がいるのは、いくつもある可能性のなかの、たまたま選ばれた一つに過ぎないのだと思えること。会社でも学校でも、ここだけしか自分のいられる場はないのだと思っていては窒息してしまうだろう。

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 実は大谷の二刀流についても、似たような効能があることを以前、栗山英樹監督は語っていた。
「僕は、一つにした方が成績が出ないと思うんですよ。二つやることである意味“逃げ道”があって、それでうまく気分転換ができている」(サンケイスポーツ2015年2月15日付記事)。

 もちろん大谷や永田氏のように、両方で一流の実績を残すのは難しい。しかし、行き詰まったときに「別の涼しい風が吹いている場所」があるのだ、と思えることは、きっと精神にゆとりをあたえてくれることだろう。

デイリー新潮編集部

2018年6月4日掲載

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