特殊金融機関「外資金庫」の秘密
軍票の乱発により、占領地域で激しいインフレが発生した。
1936年(昭和11年)の年平均を基準にした卸売物価指数を見ると、北京では1943年3月に10倍以上になり、1944年末には50倍に近づいた。上海では、1941年秋に10倍を越え、1943年末には100倍を越えた。そして、1944年末には1000倍に近づいた。シンガポールでは1944年末に1941年末の100倍を越した。
これに対処する方法として本来取られるべきは、公定為替レートの切下げである。しかし、日本政府は、そうしなかった。なぜか? 『昭和財政史』第4巻(p369)の説明は、つぎのとおりだ。
「大東亜共栄圏」を表看板にしていた当時の日本帝国政府としては、そのような方法をとることは政治的配慮からして実行しにくいものであった。というのは、そうした形で現地経済を露骨に搾取することは、「同甘共苦」を建前とする「八紘一宇」の精神には、あまりにもふさわしくないと考えられたからであり、またそれが従来の経済政策の完全な破綻を公認する結果になることをおそれたからであった。
では、それより適切な方法が取られたのか? 具体的な方法は以下に述べる通りだが、実態は何も変えずに、数字を見えないようにした。
これは、ごまかしに過ぎない。分かりにくくしただけのことである。『昭和財政史』も、「それは結局、金額の整理方法を変えただけであって、実質的には現地経済の露骨な搾取とほとんど変りのないものであったといわなければならない」としている。
こうして、 日本円と占領地円系通貨との間の公定交換率は固守された。このため、書類上では、占領地の軍事費は、占領地でのインフレに合わせて膨れ上がることになった。
そこで、これを見かけ上抑制するため、特殊金融機関である「外資金庫」を新設し、これに占領地での一切の戦費の調達をおこなわせることとした。外資金庫は、1944年12月の閣議で決定され、1945年3月1日から業務を開始した。
外資金庫による「調整」
外資金庫の業務は、第1には、横浜正金銀行、朝鮮銀行、南方開発金庫の借入を肩代わりしたことである。
第2の業務は「調整」であって、これが基本的な業務だ。
これは、占領地における物件費の支払について、支払額の一部だけを臨時軍事費から支出し、残りの大部分を外資金庫調整金として支給する(その金額を日本銀行代理店に払い 込んで戦費にあてる)という方法である。
それまでは、臨時軍事費特別会計が現地金融機関等から借り入れて、戦費を支出していた。新しい方式では、戦費の大部分は、臨時軍事費特別会計を経由せず、直接に現地の軍に支給される。
要するに、戦費の大部分が予算外の支出になったのだ。つまり、見えなくしたのである。前回の最後に「(戦費が)臨時軍事費特別会計からは姿を消してしまった」と述べたのは、このことだ。
国家が行っている戦争の支出が予算外の支出になるなど、まったくのルール違反だ。しかし、内地が毎日のように激しい爆撃にさらされている1945年に、誰もそのことを問題とする余裕などなかった。しかも、外資金庫の活動は極秘とされ、決算等の業務は戦後に行うこととされたので、外部の者が操作の実態を知ることはできなかった(なお、臨時軍事費特別会計も、戦争の始期から終期までを1会計年度とみなして処理していた)。
これによって、臨時軍事費特別会計の支出として経理されている軍事費は、実際の軍事費のうちのごく一部になってしまった。
その比率はどの程度であったか? 外資金庫の発足当初は、臨時軍事費特別会計の支出として経理されている軍事費は、実際の軍事費の5%とされた。残りの95%は外資金庫が負担した。
しかし、中国における物価の騰貴は、その後ますます激しくなったので、臨時軍事費特別会計の負担率は、1945年5月以降は2%に切り下げられた。
さらに、7月以降については、この比率は1%に切り下げられた。
終戦直後に 閉鎖機関整理委員会で作成された損益試算表によれば、以上の「調整」によって国庫に納入された金額は、合計で5228億円であった。
第50回(2018年5月10日「第2次世界大戦における戦費の総額はどの程度だったか?」)で述べたように、日華事変(1937年~1945年)と太平洋戦争(1941年12月~1945年8月)の戦費の総額は、7559億円だ。このうちの大部分は、ここで述べた方法によって支出されたのだ。
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