「応仁の乱」と化した安倍VS朝日 両者対峙の変遷を新田哲史氏が解説
安倍首相と朝日新聞。因縁の対決が日本中を巻き込むドロ沼の「大乱」と化すまでには何あったのか――。今日に至るまでの経緯を「アゴラ」編集長の新田哲史氏が解説する。(以下、「新潮45」2018年6月号より抜粋、引用)
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「モリカケ」(森友・加計問題)に端を発した政界スキャンダルは、本質的な政策論議と程遠く、明確に違法性があったといえるのは、財務省の公文書改竄問題くらいだった。財務次官とテレビ朝日女性記者のセクハラ騒動などは、場外乱闘もいいところ。全体として「泥仕合」と化す状況に、筆者は、旧知の歴史学者、呉座勇一氏のベストセラーで注目された「応仁の乱」を想起した。
政権与党の求心力が落ち、行政が混乱するだけでなく、野党も女性議員らが表層的な「#Me Too」パフォーマンスに終始して国民の支持が集まるわけでもない。つまり、与党、野党、霞が関、そして国民の誰にも「勝者のいない政治闘争」として応仁の乱がダブった。
全国の大名家も巻き込んで約11年も長期化した本家は、足利将軍家などの跡目争いがきっかけだった。一方、平成版の虚しい闘争劇の発端といえば、安倍首相と朝日新聞の舌戦だったことには、読者の多くも納得されるだろう。
今でこそモリカケ報道で、殺るか殺られるかのサバイバルマッチとなった両者のバトルだが、第2次安倍政権発足から2年ほどは、ここまで険悪ではなかった。
たしかに2005年、いわゆるNHK番組改変問題が勃発した経緯はある。この問題は、市民団体による模擬法廷で、昭和天皇らを被告に慰安婦問題を「戦争犯罪」として裁こうとした取り組みを放送したNHK番組を巡り、当時官房副長官だった安倍氏らの政治介入があったと朝日が報道。安倍氏、NHKが全面否定し、バトル初期を代表する論争となった。翌年、安倍氏は「美しい国」を標語に掲げ、初めて首相に就任するも参院選惨敗や健康問題の悪化によってわずか1年で退陣した。
そして5年の雌伏を経て安倍氏は復権。因縁の対決再びかと思いきや、再登板当初、朝日の報道はよくある政権批判のレベルだった。というのも、2次政権での安倍氏はかつての保守色を抑え、イメージになかった経済政策を最重視。経済、安全保障での失策が目立った民主党政権に失望感が漂うなか、アベノミクスに国民の支持が集まったこともあり、朝日もネガティブキャンペーンはやりづらい情勢だった。2次政権発足から2年、2014年の総選挙に勝利した安倍氏が、内閣改造を手掛けた時点での朝日の社説(14年12月25日朝刊)はこんなトーンだ。
〈安倍政権は衆院で3分の2、参院で過半数の勢力を確保。自民党内に強力なライバルが見あたらない状況を考えると、長期政権を予感させる船出である。
であればこそ、安倍氏は数の力におごることなく、少数意見にも耳を傾ける丁寧な政権運営を心がけるべきだ。〉
この社説では終盤に沖縄の基地問題で注文をつけてはいるものの、朝日は、政権が長期化していく前提を受け入れ、権力者として謙虚にふるまうようにという、報道機関としては常識的な範囲の注文だった。この頃は、両者の対峙ぶりはまだ「穏当」だった。(中略)
しかし、明けて2015年、局面が変わり始める。統一地方選が終わった後、安倍政権は、安全保障関連法案を提出。それまでの憲法解釈で認めていなかった集団的自衛権の限定的行使も含んでいた。戦後日本の安全保障政策の重大転換に踏み出したことで、学生グループのSEALDs(シールズ)に象徴される抗議活動が連日連夜、国会前で展開される事態となった。それは同時に、護憲が社論の一丁目一番である朝日新聞にとって、またとない復活のチャンスとなる。
朝日は、本紙の紙面は言うに及ばず、系列の雑誌、ウェブメディアでも積極的に「SEALDs現象」を取り上げた。学生デモが絶滅したかと思われた現代日本で、若者たちが公然と立ち上がったことはよほど嬉しかったのだろう。台湾のひまわり学生運動、香港の雨傘運動などと並ぶ「街頭政治」の国内事例として、持ち上げ、囃し立てまくった。
デモ当時、筆者は国会前デモの様子を一度だけ観に行ったが、報道陣のスポットライトを浴びているのは、デモ隊の一部に過ぎない学生たち。しかし、その他大勢は、あきらかに60~70代のシニアたちだった。学生時代の闘争劇再現の立役者となったSEALDsは、朝日にとっても、愛読者層のシニアたちにとっても、まさにアイドルであり、死にかけた護憲運動の救世主だった。
もちろん、「お祭り」は、部数減に悩んでいた朝日の営業戦略的にも慶事だ。平成の時代に「学生運動の復活」機運を目の当たりにすれば、「自分たちは間違っていなかった」と、その論調にまだ市場ニーズがあると思い至っても無理はなかろう。
「特報部」温存も火種に
それから、もう一つ、朝日の社内事情で、のちの反安倍キャンペーンにつながる点で見逃せないことがある。吉田調書の一大誤報でお取り潰し必至とみられた特別報道部(特報部)が生き残ったことだ。
朝日は、記者クラブ発の発表報道やその速報特ダネと一線を画そうと、本格的な調査報道を志向して、06年に特別報道チームを設置。政府による原発事故の情報公開への不信感が高まった東日本大震災を契機に、特別報道部に格上げされ、政治部や社会部などからエース級の記者たち約20人を集めた。13年には福島県内の除染作業の手抜きを特報し、同年度の新聞協会賞を受賞するなど成果もあげた。
しかし、その後の成り行きを見れば、手抜き除染の成功体験が仇になったといえる。特報部が社内で発言力を増せば、報道内容のコントロールが利かなくなる。吉田調書誤報の経緯を調べた朝日の第三者機関「報道と人権委員会」の公表した見解を読むと、掲載予定の5日前になっても、特報部次長は編集局首脳にすら秘密保持を理由に調書をみせることを拒否。十分なチェックを受けないまま紙面化されたという。暴走した結果、社の根幹を揺るがす大失態をおかしたことで特報部長らは更迭。特報部は、解体の可能性も予期されたが、チーム自体は存続した。特報部は後年、東京、大阪の社会部などとともに、森友・加計の取材報道に携わり、安倍政権を苦しめることになる。
さて、「SEALDs現象」で、朝日が“自信”を取り戻しはじめると、今度は安倍首相の変化が顕著になってくる。安倍政権下で初の衆院解散総選挙となった2014年冬の決戦では、当時の野党第1党、民主党は議席を増やしたものの全体で73と、自民党の291に遠く及ばず、党首の海江田万里氏は落選。米国の政治学者、ジェラルド・カーチス氏の言葉を借りれば、「野党が戦後もっとも弱い」構図が確定的になった。
自民党の政権転落のリスクが消滅すると、首相の言動や政権運営に「おごり」や「ゆるみ」が目立つようになる。それは「一強」の副作用として仕方がない一面もあるが、復権してしばらくは鳴りを潜めていた安倍首相の強気な物言いは、リミッターが外れて地が出始めた。
そのシンボリックなシーンと言えるのが、14年衆院選から5カ月後の衆院平和安全法制特別委での一幕。「早く質問しろよ!」。中谷元防衛相(当時)と論戦中だった民主党(当時)の辻元清美氏に対し、ヤジを飛ばしたのは首相本人だった。苛立ちがピークに達したのであろうが、行政府の長としてはいただけなかった。自信を取り戻しはじめた朝日と、一強体制によるゆるみをのぞかせはじめた安倍氏。それが現在の両者の激烈な対立へとつながる底流にあったといえる。
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全文は「新潮45」2018年6月号に掲載。このあと、現在の「大乱」に繋がるきっかけとなった出来事や経緯は一体何だったか、両者の対峙ぶりを徹底解析。6ページにわたり、その火種を詳しく解説する。