「麻酔科医」の目から見た子供を取り巻く世界の手術環境
【筆者:脇本麻由子・大阪警察病院麻酔科医】(詳細プロフィールは本文末尾に)
私は麻酔科医です。麻酔科医になってから、10年が経ちました。3年前に、勤めていた子ども病院を退職し、1年間、さまざまな開発途上国の手術麻酔のボランティアに参加しました。この経験を基に、子供たちをとりまく世界の手術環境について皆さんに少しお話しようと思います。
まず、統計についての話をします。国連によると2015年時点での世界の人口は74億人で、2050年には100億人に達すると予測されています。爆発的な人口の増加は、現時点ではアジア地域を中心に起こっていますが、今後それはアフリカ地域に移っていくと予測されています。いずれにしても、重要なのは、人口増加のほとんどが、「開発途上国」と呼ばれる地域に集中しているということです。さて、ここで問題です。この方たちの一体何%が、現在、必要な手術を受けることができているでしょうか? 世界にはどの位の数の医者がいて、どのくらいの医療資源があるでしょうか?
2008年に医学雑誌『Lancet』が掲載した報告によると、現在、全世界で施行されている全手術のおよそ75%は、先進国のうち最も豊かな上位3カ国で行われています。一方で、開発途上国の中でも、最も貧しい下位3カ国で行われている手術は、全体のわずか3%に過ぎません。これらの国においては、人口10万人あたりの麻酔科医の数が1人にも満たない状況であり、ほとんどの方々が、必要な手術を受けることができない状態にあると言えます。
例えば、私が、ラオスの子供病院「Lao Children’s Hospital」で出会った男の子は、歩いている時に木の枝が親指に刺さってしまい、そのまま病院にも行けず放置していました。同病院に辿りついたときには、傷は化膿して骨にまで達し、親指を切断するかしないかの瀬戸際でした。もし指を切断することになっていれば、機能的な問題が生じたかもしれませんし、ラオスのように衛生観念が未発達な環境においては、創部からさらに細菌感染を起こし、骨髄炎や敗血症のために、命を落としたかもしれません。
また、初めて参加したインドネシアのミッションにおいては、大勢の子供たちが、手術を受けるために列をなしていました。インドネシアには日本と同じような高度な施設の整った病院が存在しますが、彼らは、高額な医療費を支払うことができずに、必要な医療を受けることができないのです。このように、世界には、必要な処置を受けることができなかったり、ごく簡単な怪我で死んでしまったり、生涯不自由の残るような障害が残ったりするような子供たちがたくさんいます。なぜ、このようなことが起こっているのでしょうか?
意外と時間がかかったボランティア承認
全く話は変わりますが、次の話題に進む前に、少し私自身の話をしたいと思います。冒頭でもお話したように、専門医を取得した麻酔科7年目の春に、私はそれまで働いていた病院を退職することにしました。病院の上層部や周りの人には、これまで傷のない経歴でどうしてそんなことをする必要があるのか? いったいそれに何の意味があるのか? と止められました。しかし、ボランティア活動のプラスの側面に心を動かされていた私は、これまでと全く異なる価値観の中で医療をやってみたいと考えていました。勤務先の上司には、働きながら有給をとってやればいいじゃないかとも言われましたが、自分としては短期間にできるだけ多くの経験に浸りたいと考えていたので、迷った末に退職の道を選びました。
海外では、このようなボランティアへの参加はごく一般的に行われており、医療従事者を送り出すような環境が整っています。たとえば、フェロークラスでも年4週間の有給消化が認められており、さらに医療ミッションに参加する場合は、それとは別に休暇がもらえることもあります。日本で、実質それが認められるような病院は、このような活動に積極的な一部の病院のみでしょう。
2016年の5月に退職をして、ボランティア医師としての生活を開始しました。退職すると決めてから知りうる限りのボランティア団体に登録をしました。特に、埼玉県立小児医療センターの蔵谷紀文先生(麻酔科長)は長い間国際保健に携わっておられ、様々なボランティア団体をご紹介くださいましたし、実際、自身が初めて参加したインドネシアのミッションでも大変お世話になりました。すぐにいくつかのミッションへの参加は決まりましたが、一方で、大きな問題も存在しました。それは、新しくボランティア団体に参加する場合、ボランティアスタッフとして承認されるまでに、かなり時間を要してしまうということでした。例えば、アメリカを拠点とする「operation smile」においては、新規ボランティアスタッフのミッションへの参加は、登録から平均して1年後です。
また、日本にも事務局のある「世界の医療団」は、書類選考の上で面接が必要です。世界的に有名な「国境なき医師団」においても、書類審査から面接までかなりの時間を要し、承認されたのは結局退職から半年あまりが経過した秋頃でした(残念ながらその頃には他のミッションの予定が入っており、さらにその翌年の進路が決まっていたので、参加を断念せざるを得ませんでした)。自分としては、どんどんミッションに参加したいと思って仕事を辞めたにもかかわらず、はじめの数カ月間は宙ぶらりんな状況で、気持ちばかりが焦りました。
また、資金も大きな問題でした。日本での生活費も必要でしたし、ミッションへの参加コストについても、団体によっては、多少なりとも参加する医師自らが負担しなければなりません。さらに、当たり前ですが、ミッションに参加している間は無給です。むしろ現地での滞在費や食費のために、全体の収支はマイナスになります。日本でつなぎの仕事を探しましたが、非常勤という勤務形態であっても、「2カ月に1回くらい1週間位休みたいんです」という人を雇ってくれるところはなかなかありませんでした。結局、ボランティア活動に非常に理解のあった大阪警察病院麻酔科の北貴志部長に拾ってもらい、現在もお世話になっています。
理想より現実的支援を
さて、話を戻します。私が、ボランティアスタッフとしてこれまで赴いた国は様々ですが、いくつかの国を渡り歩いて、同じ開発途上国というくくりであっても麻酔を取り巻く状況には大きな違いがあること、そして、そのような違いに応じて、支援の必要な部分も異なっていることに気づきました。活動には大きく分けて、(A)参加者が医療をする、(B)参加者が医療をしながら現地スタッフに教える、(C)参加者は医療を直接せず教育を主に行う、という3つの形態があります。
私が初めて参加した「Smile Asia」という団体のインドネシアでのミッションは(A)に当たり、現地のドクターはほとんど登場しません。こういったタイプのミッションは、特に人的資源が少ない地域で行われます。つまり、国の中に医者がほとんどいないような地域に適応されます。事実、前述したとおりインドネシアの人口10万人あたりの麻酔科医の数は、1人にも満たない状況です。
よく、ミッション系のボランティアは持続可能な援助ではないからすべきでないといった意見も見受けられますが、設備も人的資源もない場所では、ミッションを継続し、とにかく目の前の患者さんを救うしかありません。
例えば、アフリカ、特にサハラ砂漠周辺の国々においては、医療従事者の数が著しく少なく、先進国のボランティア団体がチームで出向いて医療を行うというケースが多いようです。マケドニアでは「Novic Cardiac Alliance」という、小児の心臓外科手術を行うボランティア団体のミッションに参加しました。この団体の活動は(B)にあたり、私も必要に応じて医療行為を行いましたが、基本的には現地の麻酔科医への教育が仕事でした。被支援国内に麻酔科医がある程度存在するような場所においては、教育によって、あとは自助努力で手術ができるようになる可能性があります。マケドニアは、麻酔看護師制度をうまく使っている国の1つで、開発途上国の中でも比較的麻酔を行うことのできる医療スタッフが揃っていました。きちんとトレーニングを受けた麻酔科医を増やすことも大事ですが、それはあくまで理想です。開発途上国において、目の前の手術をこなすという意味においては、麻酔科医の育成にこだわらず、麻酔を行う医療スタッフの絶対数を増やすということも、重要になってきます。
実際、麻酔看護師を麻酔科医がうまく管理すれば、最小の麻酔科医の数で最大多数の手術を行うことが可能になります。ラオスでの仕事は(C)にあたり、麻酔看護師への教育が主でした。「Health Volunteer Overseas(HVO)」という団体は、開発途上国での永続可能な医療を目指しており、援助や寄付で開発途上国に病院を建て、かなり大規模なスタッフを先進国から募集して送り込み、現地のスタッフを教育しています。この(C)のパターンにおいては、国内にほとんど医者がいないケースもありますが、麻酔看護師制度が許されている地域では、先進国からベテランの麻酔科医を1人送り込み、複数人の看護師にトレーニングをすれば、あとは自助努力で医療を行うことができます。ラオスの「Lao Children’s Hospital」はまだ途上段階でしたが、同じHVOが支援したカンボジアの小児病院は、このような取り組みがうまくいった例と言えます。国内に麻酔科医がほとんど存在しないため、教育という点では、私のような先進国からやってくるボランティアの麻酔科医にしばらく頼る必要がありそうです。しかし、ある程度麻酔看護師が教育されれば、被支援国内で麻酔科医と協力することで、多くの手術を行うことができるようになるでしょう。
乖離している「理想」と「現場の状況」
ここまで見てきたように、世界の多くの地域においては、手術を行う環境が整っていません。特に人的資源の不足は切実です。では、なぜここまで人が足りていないのでしょうか?
1つは、「手術」を必要とするような医療は、開発途上国への支援としては「neglected step-child」として、支援が遅れていた分野だったことが挙げられます。国連は2000年に、ミレニアム開発目標(MDGs)として、極度の貧困の半減からHIV(エイズ)の蔓延防止、普遍的な初等教育の実現まで、幅広い課題をカバーする8つの目標を掲げました。
さらに、達成期限とした2015年には、より持続可能な開発目標として新たに「2030アジェンダ」を掲げました。しかし、そのいずれにおいても、「手術」を必要とするような医療や医療に関する人材については触れていません。「手術」を必要とするような医療は、高価である、コストに見合わないというレッテルを貼られ、多くの国際機関は、感染症に対するワクチンなど、物的資源により重きをおいて、支援を行ってきたのです。したがって、保健医療分野の人材不足は緩和されることなく、 “すべての人が等しく医療を受けられるように”というスローガンに、暗い影を落としてきました。そして、WHO(世界保健機関)は2016年に、「Global strategy of human resources」と題して、質の良い人材の教育と確保を目標として声明を出すに至りました。彼らは、医療従事者の数を増やさなければより大きな目標を達成できないということに、ようやく気づいたのです。とは言え、この声明を受けて、実際に世界的な人材不足が解決に向かっていくかについては、慎重に推移を見守っていく必要があるでしょう。資金や目標達成に向けた現実的なロジスティックなど、解決すべき課題はまだまだ山積みです。
もう1つは、我々麻酔科医の思い込みがあります。例えば、先に述べたように、麻酔科医が国の中にほとんどいない状況では、麻酔科医を教育しても必要な手術をこなせるだけのマンパワーは手に入りません。こういった国においては、比較的教育時間とコストが短い麻酔看護師を優先的に教育し、とにかく手術をこなすことが重要だと私は考えます。逆に麻酔看護師が充足しているような国では、積極的に麻酔科医を教育し、複雑な手術ができるように、そしてその麻酔科医が、今度は麻酔看護師を教育できるような体制を整えることができれば、より良い手術環境が実現するでしょう。
しかし、「世界麻酔科学会」は、「麻酔というものはトレーニングを受けた医師によって行われるべきものである」という声明を出しており、麻酔看護師の教育を積極的には推奨していません。しかし、麻酔科医を1人育てるのには、莫大なコストと時間がかかり、現時点での危機的な人材不足を補うには現実的な方法とは言えないでしょう。つまり、世界の麻酔科医の『想い』と現場の状況が合致していないのです。
どこの国でも、どの子供も等しく
こういった問題を解決する上で、タスクシフティングという概念が有効かもしれません。もともとは、アフリカ諸国でHIVを診る医師が不足していた1990年代に、薬の処方や検査を看護師が代わりに行うというところから始まった方法です。WHOは、現在の致命的な医療従事者不足の解決方法としてこのタスクシフティングに着目し、できる限り、様々な保健分野で行えるようにマニュアルも出しています。WHOが、具体的な数値目標を出して、医療従事者の数の増加を図ろうとしているのは、非常に望ましいことだと思います。
私は現在、どういった因子が、開発途上国の麻酔科医数に影響しているか、調査を行っています。この研究を行う動機となったのは、これまでのミッションで感じた疑問でした。麻酔科領域における人材不足の背景、また、どういった職種が足りていないかは、ミッションに赴いた国でそれぞれ異なっていました。しかし、支援の方法は、各団体、各学会の信ずるポリシーに則って決められている部分が大きく、現地の状況に十分即していないことが多かったのです。そのようなギャップを埋める上で、麻酔科医数に影響を与えうるような因子を正確に把握することは、必要なステップに感じました。おそらく、第1には経済的な発展の度合いが大きいとは考えていますが、その他にも、麻酔科医数に影響を及ぼしているような因子が明らかとなれば、より効果的な支援につながるかもしれないと期待しています。どこの国でも、どの子供も等しく医療が受けることができるように。自分にできることは多くないかもしれませんが、1人でも多くの子供の人生を救えるように、地道な活動を続けていきたいと思います。
(本稿は『MRIC』メールマガジン2018年5月1日号よりの転載です)
【筆者プロフィール】
平成19年近畿大学医学部卒業。同大で初期研修を修了し、21年より大阪大学麻酔科で後期研修を開始。22年、大阪急性期・総合医療センター、24年、大阪大学医学部附属病院集中治療科を経て、25年から3年間、大阪母子医療センターで小児麻酔を研修する。28年、ボランティア参加を理由に同センターを退職、大阪警察病院の非常勤となる。29年、帝京大学専門職大学院公衆衛生科修士を修了。30年5月より、アメリカ、オハイオ州にあるNationwide Children's Hospital でClinical&Research Fellowとして勤務。
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