「剣道」薩摩「柔道」阪神という発展の「地域格差」を考察する
4月23日、福島県いわき市を訪問した。福島県北学校剣道連盟が主催する剣道講習会に参加するためだ。
この講習会は、東日本大震災の被災地支援の一環として、2013年に始まり、現在まで続いている。発起人は、筆者の大学時代の剣道部の1年後輩である藤井健志氏だ。
藤井氏は代々木ゼミナールの国語のトップ講師であるが、東日本大震災以降、福島県の教育支援も続けている。
藤井氏は受験勉強だけでなく、スポーツでも被災地を支援しようと考えた。そして、受験指導を通じて信頼関係を構築した福島県立相馬高校の荒義紀先生(現相馬東高校教頭)に、その旨を伝えた。
剣道会の「長嶋茂雄」
福島県は剣道が盛んだ。多くの有名選手を輩出してきた。2005年に全日本剣道選手権を制し、準優勝2回、3位3回の実績を誇る原田悟氏は、県内屈指の進学校である福島高校のOBだ。私が東京大学剣道部在籍中に御指導頂いた元警視庁主席師範の小沼宏至先生は、会津の出身だ。1961年の全日本選手権で準優勝している。
藤井氏と荒氏の間で話はトントン拍子で進み、「折角だから、鍋山先生にも来て頂こう」という話になった。そして、鍋山先生も応じた。
鍋山先生とは、筑波大学の鍋山隆弘准教授のことだ。藤井氏と鍋山氏は同学年で、かつて全国大会で剣を交えた仲だ。
鍋山氏は剣道界では知らない人がいない著名人だ。1986年、高校2年生で出場した玉竜旗高校剣道大会での大活躍は伝説だ。大学、社会人でも活躍し、鍋山氏のことを「剣道界の長嶋茂雄」と評する人もいる。
福島に鍋山先生がやって来る。当日は大勢の小中高の生徒と、さらに彼らの指導者が集まった。参加者は、普段、会うことが出来ない鍋山先生から直接の指導を受け、その後の打ち上げでも彼らが興奮しているのがわかった。
この場には、我々が平素からお世話になっている、ときわ会の関係者の姿もあった。竹本恭太氏や杉山宗志氏だ。いずれも剣道愛好家だ。竹本氏は地元の磐城高校出身。在学中に東北地区大会の個人戦で優勝した。駒澤大学でも剣道を続け、卒業後は故郷に戻った。現在、地元のかなや幼稚園の園長を務めている。
杉山氏は静岡県出身で東大剣道部の後輩。大学時代は建築学を学んだ。藤井氏に連れられて福島を訪問したことがきっかけで、3年前、いわき市内のときわ会常磐病院の事務員として就職した。いわきでも稽古を続け、地元の剣道大会で入賞したこともある。
学校教員と幼稚園や病院関係者。筑波大学教員や東京の予備校講師と福島県民。普段交わらない人たちが、剣道を通じて交流した。剣道という日本の伝統文化が、交流の潤滑油として機能していることがわかる。
「礼儀正しく、丈夫な子供に……」
筆者も剣道愛好家の1人だ。最近、稽古はご無沙汰で口だけの存在だが、剣道への関心は以前と変わらない。ここで私の剣歴を簡単にご紹介しよう。
私が剣道を始めたのは小学校1年生、1975年7歳のときだ。母親が「礼儀正しく、丈夫な子供に育ってほしい」と希望したためだ。
私に剣道の手ほどきをしてくれたのは、当時、兵庫県警に勤めていた警察官の渡邉清先生だった。渡邉先生は、1日の勤務を終え、自宅に戻った後、近所の神社の境内を使って、子供たちに剣道を教えておられた。
当時、私が住んでいたのは兵庫県の加古川市だった。加古川は旧西国街道沿いの宿場町で、明治以降、日本毛織(ニッケ)の企業城下町として発達した。父は日本毛織に勤めていた。
その後、兵庫県内の尼崎市に転居し、灘中学・高校でも剣道を続けた。灘中学・高校時代の師匠は、兵庫県警の師範であった田中康俊先生だ。剣道だけでなく、礼儀や生活態度を厳しく御指導頂いた。このときの経験が、私の一生の財産となっている。
進学校である灘中・高の剣道部は、そんなに強いわけではない。神戸市や兵庫県の大会で入賞することもあったが、当時の県内の強豪は赤穂高校や東洋大姫路高校で、彼らには歯が立たなかった。
1987年に東京大学に入学すると、そのまま運動会(体育会のこと)剣道部に入部し、4年間続けた(東大運動会剣道部は医学部生も4年で引退する)。
1年生のときの上級生には、九州出身者が多かった。福岡県修猷館高校や久留米大附設高校のOBで、剣道も強かった。彼らの活躍のおかげで、東京大学は関東大会でベスト8まで進出した。準々決勝は、この年、団体戦のすべてのタイトルを獲得した国士舘大学だった。3-1で敗れたものの、見応えのある試合で日本武道館は盛り上がった。九州出身の先輩たちのレベルは、私が育った兵庫県の進学校とは雲泥の差だった。
剣術家を救った「日本警察の父」
高校生の頃、兵庫県内では神戸よりも姫路や赤穂が強いのはなぜか疑問に思っていた。大学に入り、東京や関西よりも九州の方がなぜ圧倒的に強いのか考えるようになった。
医師となって25年。さまざまな場所で働き、それぞれの場所で地元の人々と交流した。医師の数、病院の数、医療レベルには歴然とした地域格差があることを目の当たりにした。最近になって、この格差こそ、日本の近代化を反映したものだと考えるようになった。実は、この状況は剣道も変わらない。本稿では、剣道の地域格差の原因を、同じく日本を代表する武道である柔道と比較して考察したい。
近代剣道の原型を作ったのは誰か。私は薩摩藩だと考えている。
江戸時代、剣道は剣術と呼ばれた。徳川幕府を筆頭に、各藩は剣術を奨励した。将軍家の剣術指南役の代表は柳生新陰流だった。
幕末、江戸では町人や農民も剣術を習った。東京の日野で町道場を経営していたのが近藤勇で、彼らの流派は天然理心流といった。彼らが結成したのが新撰組だ。
この状況は明治維新で一新された。徳川家は静岡に引っ込み、旗本以下、多くの家来衆は職を失った。町道場を経営していた剣術家も失職し、剣術見世物で細々と食いつないだ。彼らを救済したのが、川路利良だとされている。
川路は薩摩藩出身で、初代大警視を務めた。欧米の警察制度を日本に導入し、「日本警察の父」と称される。彼は剣術家をまとめて組織化し、現在の警察剣道を作った。
当時の影響は今でも残っている。例えば、警視庁には今でも鹿児島出身者が多い。警察官の出身地を調べると、東京が1位で鹿児島が2位だ。東京が多いのは地元であること、人口が多いことから当然だが、鹿児島が2位というのは不思議だ。
現在、警視庁の剣道主席師範は寺地種寿氏だが、彼も鹿児島県阿久根市出身だ。東大剣道部の師範も務める。
会長に「東條英機」
話を戻そう。剣道と警察の関係は、1895年に京都に大日本武徳会が設立され、さらに強固なものになる。大日本武徳会は当初、天覧試合の開催を目的とした組織だったが、その後、武道の振興を目的に全国に規模を拡大する。その際、警察を中心とした内務省の地方組織が活用された。武徳会の募金活動は警察官が担当したという。警察官が募金を集めるなど、現在では想像がつかない。
大日本武徳会、そして剣道は順調に発展する。1909年には財団法人化されたが、その際の会員数は約150万人、資金量は約181万円だった。現在の貨幣価値に直すと50億円程度だ。全日本剣道連盟の2017年3月末日現在の資産合計は16億9483万円だから、規模の大きさがお分かりいただけるだろう。
本稿で詳述は避けるが、戦時下で大日本武徳会は戦争翼賛団体となっていく。1942年には改組し、会長に東條英機首相、副会長に厚生大臣、文部大臣、陸軍大臣(会長兼任)、海軍大臣、内務大臣などが就任し、各支部長は各地の知事が務めることとなる。
敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は大日本武徳会を解散させ、関係者約1300人を公職追放した。同時に剣道は禁止された。1950年、剣道は体育スポーツであるという理念で復活を試みるが、GHQは認めず、「撓(しない)競技」として再開する。
剣道として正式に再開するのは1952年。木村篤太郎を会長に全日本剣道連盟が発足した。ちなみに木村は東大剣道部OBだ。旧制第七高等学校造士館(鹿児島)から東京帝国大学に進んだ弁護士である。戦前、大日本武徳会剣道部会長を務めた。戦後は検事総長、第一東京弁護士会会長、司法大臣、初代防衛庁長官などを務める。
かくの如く、剣道は国家権力と密接に連携して発展してきた。そしてリードしてきたのは九州出身者だった。現在まで基本的な構造は変わらない。
1953年から始まる全日本剣道選手権大会の優勝者は、圧倒的に警察官が多い。1974年までの22回中半数近い10回が警察官で、残りは一般企業や教員など職種はまちまち。それが、私が剣道を始めた1975年以降になると、開催された43回のうち、警察官以外で優勝したのはわずかに5人しかいない。
全日本剣道連盟の会長には東大剣道部OBが就任することが多く、現在は元トヨタ自動車会長の張富士夫氏である。
高校剣道では、過去に64回の全国高校剣道大会(インターハイ)が実施されているが、九州の高校が32回優勝している。ついで、関東が13回、近畿が7回だ。近畿の7回はすべてPL学園(大阪)。PL学園は九州の有望選手が入学しており、冒頭にご紹介した鍋山氏も福岡出身だ。実質的には九州勢の優勝と言っていい。
剣道界では九州で鍛えられたトップの人材が、学生時代に関東や関西に移動し、卒業後は警察官として地方に戻る循環構造が出来ている。
「講道館」という軸
対照的なのは柔道だ。剣道ほどではないが、九州出身者が目を引く。五輪や世界選手権で5個の金メダルを獲得した全日本柔道連盟会長の山下泰裕氏は熊本県上益城郡矢部町(現・山都町)出身だし、たとえば剣道との比較で見ても、前述の通り私が剣道を始めた1975年以降、44回開催された全日本選手権で優勝者は16人(山下氏の9年連続のように複数回優勝者がいるため)だが、3連覇の井上康生氏(宮崎市)など5人が九州出身だ。
ただし、剣道と違うのは警察官が少ないことだ。警察官で優勝したのはわずかに2人しかいない。多いのは会社員(8人)、大学教員(5人)だ。
なぜ、剣道と柔道にこうした違いが生じたのだろうか。私は、柔道の発展には民間が貢献したからだと考えている。
柔道の創始者は嘉納治五郎だ。古くからの柔術を基礎に、人間教育としての側面を加えて、1882年、東京の下谷に講道館を立ち上げた。その後、薩摩出身の三島通庸警視総監が講道館柔道を警視庁の必修化に取り入れ、警察組織を介して普及した。また、大日本武徳会の統制下となり、戦後にGHQから禁止されるあたりは剣道と同じだ。
剣道との違いは、警察組織に依存せず、講道館という軸が存在したことだ。現在も講道館は柔道の段位を認定しており、柔道界の中心に位置する。2009年、モントリオール五輪金メダリストである上村春樹氏が館長に就任するまでの過去4人の館長は、すべて嘉納一族だった。
嘉納家は神戸の造り酒屋だ。本嘉納が菊正宗で、分家である白嘉納が白鶴だ。嘉納治五郎は白嘉納の一族だ。私が卒業した灘中・高は両嘉納家、および櫻正宗を経営する山邑一族によって設立された。灘中・高の柔道場には、嘉納治五郎直筆の「精力善用」「自他共栄」の額が飾ってある。これこそ、柔道家の規範だが、関西の商売人である嘉納家のモットーでもある。武家社会のように面子や建て前は重視しない。
嘉納家は富豪だ。菊地浩之氏の『47都道府県別 日本の地方財閥』(平凡社新書)によれば、昭和8年の兵庫県の高額納税者ランキングで、1位は住友合資社長の住友吉左衛門(23万3770円)だが、2位に菊正宗の嘉納治郎右衛門(7万6738円)、9位に白鶴の嘉納純(4万2456円)、10位にその義父で白鶴の嘉納治兵衛(3万8499円)が入っている。ちなみに、鹿児島県の実質的な1位は島津忠重公爵で1万4268円だった。嘉納一族の財力がおわかりいただけるだろう。
地域分散と一極集中
剣道は薩摩藩に支援されて発展した。一方、柔道は阪神間の造り酒屋が支えた。剣道が警察機構という国家権力を利用して、国内に強い基盤を作っていったのに対し、そのような権力基盤を持たない講道館は海外に進出した。
講道館の門下生である前田光世は、1907年に柔道使節の一員として渡米し、異種格闘技戦を繰り返した。その後、ブラジルに渡り、1930年に帰化。1941年に入植先のアマゾンで亡くなった。近年、グレイシー柔術の礎を築いた人物として注目を集めているが、彼は青森県の津軽出身だ。明治の東北人である前田がどのような思いでアメリカ、ブラジルに渡ったのか、一考に値すると思う。
嘉納治五郎も積極的に海外に進出した。1909年に東洋人初の国際オリンピック委員会(IOC)委員に就任、1938年のIOC総会で、1940年の東京五輪誘致に成功した。この五輪は戦争が激化したため中止となるが、1964年の東京五輪、柔道の採用へと繋がっていく。私は、この過程で、嘉納一族が強力に財政支援したと考えている。
剣道と柔道は日本を代表する武道だ。ところが、明治以降の両者の歴史は大きく異なる。この違いが、現在の剣道や柔道の在り方に影響している。剣道は伝統的な武道の特徴を強く残しているのに対し、柔道は国際的に普及する過程で講道館柔道からは変質した。また、あまり指摘されないが、国内の体制も随分と変わってしまった。結論から言うと、剣道は地域に分散しているが、柔道は極端な東京一極集中が進んだ。
前述したように、剣道ほどではないにせよ柔道も比較的九州が強い。高校生で言えば、過去65回の全国高校総合体育大会柔道大会(インターハイ)の男子団体の部で、初期の第10回大会までのうち7回は九州勢が制した。
しかし、男子団体戦で歴代もっとも優勝回数が多いのは関東地方で、半数を超える33回だ。2000年以降に限定すれば、18回中17回で関東地方の高校が優勝している。柔道は世界進出をはかると同時に、国内では東京一極集中が進んだとも言えそうだ。
こうした傾向が、柔道の場合は競技人口の減少に影響している可能性がある。現在、剣道の競技人口は約177万人(2014年)、柔道は約16万人(2015年)だ。競技人口は10倍以上も違う。近年、この傾向は加速し、全日本柔道連盟の登録人口は2002年の約21万人から22%も減少している。逆に、フランスやブラジルなどでは、すでに日本の競技人口を上回っている。海外進出と国内の空洞化、何やら、我が国の製造業と酷似する。
武道は「城下町」が強い
剣道であれ、柔道であれ、武道は基本的に城下町が強い。特に九州が強い。これは武道が基本的に武士の生業だったからだろう。その伝統が現在に引き継がれている。
幕末の戊辰の役で西国雄藩が勝利したため、我が国には大きな東西格差が生じた。西国雄藩の幹部は、そのまま明治政府の高官へと横滑りし、統治体制は継続された。西国雄藩の藩主の末裔たちは、地元の伝統的な武道である剣道や柔道を庇護した。現在も状況は変わらない。薩摩藩の伝統的武術である野太刀自顕流の普及活動をしているのは、加治木島津家の当主である島津義秀氏だ。
一方、会津藩を筆頭に東国諸藩は明治維新で壊滅的なダメージを受けた。剣術家や柔術家を守るどころではなかったはずだ。これが剣道や柔道で九州を中心とした西日本の城下町が強い理由だと思う。
このことは兵庫県にもあてはまる。兵庫県では姫路、赤穂は城下町だが、神戸・阪神間には尼崎藩、三田藩を除き、大名はいない。徳川家が、西国大名が商業資本を結託するのを怖れたからだと言われている。神戸の高校より、姫路や赤穂の高校の方が剣道が強いのは、このような背景を知れば納得できる。
関西で輸入スポーツが発展
近年、神戸市内の育英高校剣道部が全国レベルに発展した。育英高校の前身は育英義塾、育英商業学校で、嘉納治五郎が卒業した。神戸の商業系高校が剣道の強豪になるのは、実に興味深い現象だ。また、別の機会に考察したい。
育英高校と言えば野球部だ。元近鉄の鈴木啓示や元巨人の土井正三などがOBで、1993年の夏の甲子園では、大村直之(元オリックス)などを擁して全国制覇した。
野球は米国から輸入されたスポーツだ。このようなスポーツの状況は、武道とは全く違う。多くの競技で近畿地方の高校がリードしてきた。
野球の場合、過去に夏の全国高校野球選手権大会は99回開催されているが、近畿地方の高校が最も多く33回優勝している。春の選抜大会でも最多で90回中25回だ。
全国高校サッカー選手権は1917(大正6)年に始まり、これまでに93回開催されている。このうち地方別に見るとこれも最多の27回、近畿地方の高校が優勝している。戦前に限定すれば、22回のうち16回は兵庫県の高校が優勝している県別では圧倒的多数だ。内訳は御影師範11回、神戸一中5回だ。
全国高等学校ラグビーフットボール大会は、過去に95回実施されているが、近畿地方が最多36回優勝している。しかも、1918年の第1回から1929年の11回大会までは、すべて京都勢が優勝している。そのうち8回は同志社だ。
このように関西で輸入スポーツが発展したのは、輸入スポーツを導入する段階で、外国人との接点が欠かせなかったためではないかと考えられる。関西には商業やキリスト教を介した海外との接点が多い。江戸後期から幕末にかけ、特殊な窓口であった長崎を別にすれば、横浜と並んで神戸が日本ではもっとも外国に開かれた土地だった。逆に言えば、嘉納家が阪神間で商売をしていたことが、柔道のその後の海外発展に繋がったとも考えられるのではないか。
一方、城下町は鎖国化の幕藩体制で成長した。明治維新後も、貿易港と城下町が隣接する福岡など一部の例外を除き、外国との接点は限られていた。このような地域では、輸入スポーツの発展は遅れた。その典型が東北地方だろう。この地域の野球が強くない理由として降雪の影響を挙げる人が多いが、私はそれだけが理由ではないと考えている。江戸時代から明治にかけての歴史をもっと考察すべきだ。
実は、東北地方にも例外がある。それは秋田県だ。現在、過疎県の代表とされる秋田県が、かつてラグビー、バスケットボールなどの輸入スポーツの最強県だった。なぜ、秋田でこのようなスポーツが勃興したのか、稿を改めて考察したい。
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