レーガンの電話で共同ミッション、日本の密使が動いた「米国人質」奪還作戦――NAKASONEファイル
工作は失敗
戦後のケーシーはSEC(証券取引委員会)委員長や輸出入銀行総裁などの要職を歴任し、80年の大統領選挙ではレーガン陣営の選挙マネージャーを務めて政権発足と共にCIA長官に就任した。OSSの元隊員のパーティの写真にもケーシーとシャヒーンの姿が写っていた。
いわば同じ釜の飯を食った絆は永遠という訳だが、残念ながらこの人質奪還工作は失敗に終わった。CIAのウィリアム・バックレー支局長は殺害され、他の人質も解放されるまでに更なる時間がかかったが、ここで一つの疑問も残る。そもそもイランとの交渉で日本側は本当に石油のカードを使ったのだろうか。
レーガンの日記を読めば、彼が日本からイランへの圧力を期待していたのは明らかだ。また密使が出発する前、ケーシー長官はわざわざ部下の中東専門家を東京に派遣してブリーフィングを行ったが、中曽根は回顧録で、シリアに円借款をちらつかせて人質解放に動いてもらう算段だったという。とすれば、日本側はせっかく手にした交渉カードをふいにした恐れがある。また落合の著書によると、CIAは密使には中東にパイプを持つ国際的フィクサーの田中清玄が適任としたが日本側が断ってきたという。
田中は昭和初期の武装共産党の書記長を務め、治安維持法違反で10年以上の投獄生活を経て戦後は中東の油田権益獲得など事業を手がけた。右翼、左翼の枠を超えて国内外に絢爛たる人脈を持ち、「東京タイガー」の異名を取った彼を、交渉役としてシリアとイランに派遣した元駐フランス大使で中東調査会の中山賀博(よしひろ)理事長の代わりに人質奪還に起用していたかもしれないのだ。
もちろん、田中を起用したからと言って工作が成功したかどうかは分からない。だが、それを別にしてもつくづく思うのは、80年代とは何と刺激的でドラマに満ちた時代だったのだろうという事だ。共に第2次大戦を戦い抜いた2人の元スパイ、一人はレーガン政権のCIA長官に上り詰め、もう一人は石油業界で活躍した。生涯の友情を誓った彼らは密かに連絡を取り合い、イスラム教武装組織に拉致された人質を救うため大統領に進言し、日本の総理を動かす極秘工作を展開した。そして、その密使として日本の国際的フィクサーの名が浮上する。下手な小説や映画より面白いではないか。
30年の時を経て封印を解かれた“中曽根ファイル”は、私たちを知られざる物語へと導く扉を開けてくれたのだった。(完)
(敬称略)
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