報道が警察を動かした 「トリカブト殺人事件」犯人の饒舌
それは一本の電話から始まった。
「友人が石垣島に旅行中に“心臓発作”で急死したが、死に方が変なんです。亭主に変なカプセルを飲まされていた」――。電話の主は池袋の高級クラブのホステスで、「変死」した神谷利佐子さん(当時33歳)の友人だった。池袋警察署にも連絡したが、まともに取り合ってくれないという。電話を受けた写真週刊誌「FOCUS」(休刊)編集部の記者は半信半疑ながら、利佐子さんの葬儀にカメラマンを派遣した。週刊誌の報道が警察を動かした「トリカブト殺人事件」の深層とは。
葬儀が営まれたのは、昭和61年(1986)5月下旬のことだった。喪主は、夫で経理事務所を営む神谷力(ちから)(当時46歳)。夫側の参列者は一人もいなかった。この日から取材班の50日に及ぶ調査が始まった。最初に怪訝に思われたのは、神谷が用意した供花の名義会社がすべて実在しなかったこと。そして次に浮かんだ疑念は、結婚直後に利佐子さんにかけられた4社、総額2億1000万円にものぼる巨額の生命保険だった。当時、神谷の事務所の申告所得は3年間ゼロ。月40万円弱もの保険料を払える収入はなかった。
もっとも、神谷にまつわる最大の疑惑は、彼がこれまで入籍した3人の妻が、いずれも不審な死を遂げていた点だった。最初の妻、看護師の恭子さんと神谷が結婚したのは昭和40年。56年頃から体の不調を訴えていた恭子さんは同年7月、病院で突然、呼吸が停止した。享年38。車で恭子さんを病院に運んだのは神谷だった。
2人目の妻・なつ江さんと神谷が知り合ったのは昭和40年代半ば頃。彼は妻の恭子さんに隠れて、なつ江さんと交際していた。やはり56年頃から彼女も体の不調が始まり、原因不明の心臓発作を繰り返した。恭子さんが死んだ1年余り後の57年に結婚するが、3年後の9月、なつ江さんも心臓発作を起こし急死。彼女も享年38。この時も神谷が車に乗せ病院に運んでいた。
さらに3人目の妻・利佐子さんの死が続いたわけだ。わずか5年で30代の若い女性が原因不明の心臓発作で次々と亡くなっていたのである。神谷が大量のカプセル剤を購入していたという衝撃の情報も入手した。
昭和61年7月6日、羽田空港で神谷を待ち構えていた「FOCUS」の2名の記者が彼に名刺を差し出した。一瞬、ひるんだ表情を見せた神谷だったが、すぐさま落ち着きを取り戻し、驚くほどの饒舌をふるい始めた。苦学した青年時代、共産党への入党と離党、収入を得ているという「死んでも言えない」仕事……。5時間にも及ぶ取材の途中、神谷は「どうして判ってくれないんですか」と興奮して涙を流してみせた。長身で色白、物腰の柔らかい小心そうに見える中年男が見せた意外な一面だった。彼は「そんなに都合よく人を殺せる薬があったら教えて欲しい」と言い残して席を立った。
フグの毒も研究・混入
この取材結果を受け「FOCUS」は、3回にわたり、神谷の疑惑をめぐる調査報道記事を発信した。報道を受け、警視庁も捜査を開始。しかもこの時、沖縄の地で神谷の運命を決定付ける、重大な動きがあった。利佐子さんの解剖を担当した当時の琉球大学助教授・大野曜吉医師(現・日本医科大学大学院医学研究科教授)が死因に不審を抱き、心臓や血液を保存していたのである。大野医師が明かす。
「解剖を進めると、心臓も健全で出血もない。手伝ってくれた警官たちも疑問を感じたのか、妙にシーンとした雰囲気でした。非常に気になったので、試験管2本分30ccの血液を採取し、保存しました。八重山署解剖棟の外のガレージで待っていた神谷に死因を説明したのですが、心臓の刺激伝導系という極めて専門的な用語について、“それは知っています”と言ったので驚きました。また、“覚醒剤は出ましたか?”と訊く。“昨日は取り乱したけれども、今日は心の整理がつきました”と言う神谷が“臓器は戻していただけましたか?”と尋ねてきました。彼の多弁が強く印象に残りました」
大野医師は、強心剤などの数種の薬物について独自に検査をするが、いずれも結果はシロ。そこで東北大学の恩師・鈴木康男教授に相談した。すると、示唆を受けたのが、自然界に自生する多年草の植物だった。トリカブトの毒である。
「東北大のトリカブトを送ってもらい、抽出してマウスで試したら、コロコロと死ぬ。これは大変だと思いました。保存血液のうち10ccを東北大に送って、分析を依頼したところ、最初の2ccでトリカブト毒が検出されたと連絡がきた。念のために器具を全部洗浄し直して、再度2ccの分析を行うよう頼みました。結果は同じくクロ。即、私は沖縄県警に報告書を送りました」(同)
この物証に加え、彼がトリカブトの他、フグも大量に購入し、その毒を使用していた事実も発覚。平成3年(1991)7月、神谷は殺人容疑で警視庁に逮捕された。だが立件できたのは利佐子さんの1件だけ。平成14年、彼の無期懲役が確定した。一審弁護を担当した後藤栄一弁護士の述懐。
「この事件はマスコミの報道のおかげで警察が動いた。本来は最初から動くべきでした。神谷さんは尋問に際しても、得意気に自らの知識を披露する。自分の物語に酔っているような特異なところはありましたね」
彼は平成24年11月、大阪医療刑務所で病死していた。享年73。〈長期間の準備をし、独自の殺人技術を開発、実行した〉(判決文)我が国犯罪史上例を見ない「トリカブト殺人事件」。その主役は最後まで真実を語ることなく、歪んだ物語の幕を閉じた。