「ロン・ヤス」の友情は本物だった レーガンからの“頼みごと”――NAKASONEファイル
人質はCIA
同年7月27日、ホワイトハウスのNSC(国家安全保障会議)である一通の文書が作成された。タイトルは「大統領から中曽根への電話・ベイルートの米国人人質に関して」、オリバー・ノース軍政部次長からロバート・マクファーレン国家安全保障担当補佐官に宛てたメモだった。
この日は週末の土曜日だが、夜の8時にレーガン大統領から日本の中曽根総理に電話を入れる、その30分前にホワイトハウスのシチュエーション・ルーム(危機管理室)に国務省の通訳を待機させるとの内容だった。これはCIAのウィリアム・ケーシー長官とクレア・ジョージ工作担当副長官の助言に基づき、両者の同意も得ているとある。
遠い中東でのイスラム教武装組織による人質事件、それになぜ日本の総理が関わってくるのか。話はその16カ月前に溯った。
84年3月16日、レバノンの首都ベイルートでウィリアム・バックレーという米国の外交官が武装勢力に拉致された。バックレーは現地の米大使館で政治問題を担当していたが、これを知った米バージニア州ラングレーのCIA本部は大きな衝撃を受けた。政治担当官というのはあくまで表の姿で、じつは彼はCIAのベイルート支局長だったのだ。
歴史的にレバノンはキリスト教やイスラム教の様々な宗派が入り混じり、特に第2次大戦以降は紛争が絶えなかった。80年代初めには米海兵隊基地への自爆テロで数百人の隊員が死亡し、米国人の誘拐も相次いだ。もしバックレーが拷問を受けて情報源を白状すれば、CIAがこれまで中東で築いた情報網がズタズタになってしまう。
当然、米国はあらゆる外交ルートで救出を図ったが、その後もベイルートではキリスト教団体の神父やAP通信社の支局長など誘拐が相次ぎ、85年夏までに人質は7名に達していた。マスコミは連日報道を繰り返し、家族も政府に解放への努力を要請したが、肝心の人質の安否さえ分からずレーガン政権は頭を抱えてしまったのだった。
丁度この頃、都内の東京医科歯科大学の附属病院にある米国人男性が入院していた。年の頃は70、ニューヨークで石油会社を経営する人物で肝臓癌の治療を受けるために来日していた。彼の名前はジョン・シャヒーン、ある年齢以上の人ならこの名に聞き覚えがあるかもしれない。かつて総合商社の一角を占めた安宅(あたか)産業(現在の伊藤忠商事)を破綻に追い込んだとされる男で、このシャヒーンこそ、レーガンから中曽根への電話の仕掛け人だった。(敬称略)
(6)へつづく
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