「田中角栄」生誕100年 5人の元担当記者が語る“知られざる素顔”
徒手空拳で権力の階段を上り詰め、首相を退いた後も闇将軍として永田町を脾睨し続けた田中角栄元首相。今年5月4日で生誕100年を迎え、新潟県・柏崎市にある生家の一般公開が始まった。
「週刊新潮」は2013年に、間近で田中角栄を見つめた“番記者”たちによる座談会を掲載した。当時、83歳から63歳まで5人の男たちが語った「それぞれの角栄」エピソードをご紹介しよう。
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通信社記者: 83歳の私にとって、田中との出会いは半世紀以上前のことだから、往時茫々とした感は否めないはずが、まるで昨日のことのように思い出す。不思議なものだね。皆さん、今日はとっておきの話をお願いしますよ。田中は1957年、岸内閣で郵政相に任命される。30代で大臣になったのは戦後初。そして61年に43歳で政調会長に就任し、私は担当になった。郵政相時代にNHKの番組に出演した折、講談の「天保水滸伝」を披露し「郵政大臣の知性は浪花節程度」とメディアに揶揄されたこともあり、そんなものかと思って出向いたところ、『日本列島改造論』の原案をぶった。勉強していて、格差是正の先鞭を付けようとしていたね。
地方紙記者: 勉強家で偉ぶらず、シャイだった。私は81年、ロッキード第一審から担当しました。角さんは当時63歳、僕も今その年齢ですがね、子供ほどの年の記者にも丁寧に対応した。ファイルが200くらい並ぶ棚から「秘 国鉄総裁」などと判が捺(お)してある書類を持ち出しては、「勉強する気あるかい。本気なら1面で7、8回は連載できるな、うん」と言う。たまに昼飯に呼んでもらってうな重を食べるんですが、こちらの顔を見ずに「食べろ」とうなぎを寄越す。83年総選挙では娘婿の(田中)直紀(元・参院議員)が出馬することになり、角さんはそれを撤回させようとしたんですが直接言えず、「選挙というものは骨肉の争いになることだってある。止めた方がいい」と手紙に認(したた)めた。公私共に角さんを支えた佐藤昭さんも呆れていました。
ブロック紙記者: 実力者にありがちな横柄さがなかった。傘寿手前の私は、彼が50歳で2度目の幹事長に就任してからの付き合い。国会内の幹事長室で名刺を出してくれましてね。私の名刺で爪の垢を掬い取り、挙句、破って捨てた河野一郎(元農相)とは大違いだった。
TV記者: 今67歳の私は、84年10月の総裁選後から担当になりました。うな重はよく取っていたし、必ず“おいなりさん”がついていて、その両方に醤油をかけるんです。
全国紙記者: しょっぱいのがとにかく好きで、天ぷらそばも伸びてから、醤油をかけ「うまいうまい」と食べる。今年で古希の私は、角栄が首相になった72年7月7日からの担当です。番(記者)は16人で、田中自ら図面を引いて目白私邸内の倉庫を改造して作った20畳くらいの「番小屋」にたむろしていました。角栄の朝は早く、5時に起きて新聞を読む。そして6時過ぎには陳情客を乗せたバスの一団が押し寄せてくる。
地方紙: 夜も早く、宴会の料理にはあまり手をつけず、8時には帰宅して家で茶漬けをすする。一度寝て、12時くらいに起きて書類を見るなど勉強した後にまた寝る……昔からこのサイクルは変わらなかったようですね。
通信社: 私は佐藤派全体をカバーしていたので、当時首相だった佐藤(栄作)の住む世田谷・淡島にも夜討ち朝駆けをしていた。玄関脇の応接室で佐藤と雑談しているところへ田中が「やあ」とやってくると、佐藤から「席を外してくれ」と言われることがままあったね。そんな時に限って、秘書が百貨店の紙袋を提げてついてくる。彼はボスにカネを渡しにきていたんだ。
ブロック紙: 私の場合、朝が田中で、夜は“趣味は田中角栄”が口癖の二階堂(進)のところへ通っていた。田中の胸中を代弁するのが二階堂の役回りで、ロッキード事件に巻き込まれていた頃は、「(舌鋒鋭く角栄を批判する)三木(武夫首相)が言えた口か」と三木のカネヘの執着ぶりを当て擦っていた。
通信社: 三木派の連中は敵対しているのに平気でカネを無心していた。「あなたの悪口ばかり」と佐藤昭ちゃんが忠告しても、「カネないんだから渡してやれ」と田中は聞かないんだ。
ブロック紙: 彼の持論は「僕には誇るべき学歴も閨閥(けいばつ)もない。頼れるのはカネと新潟の人だけだ。宏池会の公家さんとは違う」。池田勇人、大平正芳ら大蔵省出身の政治家が多く、金融機関からの献金が豊富な宏池会とは違って、カネは自分で作らなくちゃいけないということだね。さらに「カネは渡すより貰う方がつらい。だから素直に受け取って貰えるように配るんだ」とも言っていた。受け取りやすいのは弔いの場面だとわかっていたのでしょう。香典がひとケタ違って50万円なんてことも。田中の従兄弟で田中利男という秘書がいましたが、彼の朝一番の仕事は朝刊全6紙の訃報欄のチェックだった。
TV: 角さんの「結婚式は招待状がなければ行けないが、葬式は見つけたらすぐ行け」は箴言(しんげん)です。
ブロック紙: 71年、民社党の西村栄一(委員長)が急死した際、新聞紙でカネを包んで、春日一幸(副委員長)の部屋へ入った。「民社党はカネがいるだろうから使ってくれ。ありあわせのものだけど」と言う田中に春日はいたく感謝していた。
日中は“裏安保”
全国紙: 与野党だけじゃなく記者への気配りも相当なものだったとか。
通信社: 番になってすぐの中元に、松坂屋の背広仕立券が届いたんだ。オーダーしたことなどなかったし、生地は“英国製”とあったから驚いた。デスクに相談したら「仮に返してみろ、お前と付き合いが悪くなるぞ」と言う。後ろめたかったものの仕立てて着ていったら、みんな似たような新品の背広を着ているじゃない。当時で3万~4万円、なかなか良いものだった。
TV: 今で言えば20万円以上ですよね。“かなり”良いものじゃないですか、先輩。
通信社: そうかもしれないね。舶来のウイスキーやブランデーは目白にずらっと並んでいて、「持ってけ」と言うのでたくさん貰った。当時で1万円は下らなかったな。私が一旦現場を離れる際に、まず佐藤(栄作)のところに挨拶に行くと、その場で20万円くれた。で、佐藤へ挨拶したことを田中に告げたらパッと顔色が変わり、同額を包んでくれたよ。
ブロック紙: 新潟に同行取材すると、一流料亭で饗応を受け、土産に新潟特産の着物用生地をくれたことがあった。妻まで買収しようという魂胆でしょうか。こちらも初孫の雄一郎君が生まれた機会を捉え、祝いを贈ったんですが、返礼として毛布が贈られてきた。
全国紙: 番小屋で寝そべっていたら、1日目から土産を持たされましてね。妙に軽くて、それこそ背広の仕立券のようでもあり、受け取るか否か、みな躊躇していたんだけど、誰かが開けるのを見たら水戸納豆。茨城が地元の橋本登美三郎(元官房長官)から貰ったもののお裾分けだった。
TV: 納豆と20万円とは提灯に釣鐘。記者にカネまで配って手にした首相の座ですが、在任886日では不完全燃焼だったでしょうね。
ブロック紙: 看板の日本列島改造が「狂乱物価」を煽り、田中を追い詰めた。あまりのストレスに口元が歪んでいたよ。「扇風機を当てていたらこうなった」と強がるんだ、季節は秋から冬に差しかかる頃なのに。
通信社: そして息の根を止めたのが、74年10月に発表された児玉隆也による『淋しき越山会の女王』。児玉は「彼女は、大井町の、窓を開けると銭湯の煙突の煙が流れこむ安アパートに、6畳一間を借りた。彼女は、ホステスになった」と書いた。彼女とは(佐藤)昭ちゃんのことだね。「児玉には参った。困ったよなぁ」と田中はしきりに嘆いていた。
全国紙: 「日中国交正常化」も相当なプレッシャーだった。右翼から剃刀の刃や弾丸を送るぞという脅迫状が山のように届いていた。
地方紙: 角さんは後に「表が日米であれば、日中関係は“裏安保”」と解説してくれました。「中国7億の民がソ連の防波堤となる。となれば米国が日本に軍備を強要することはなく、経済発展を推進できる」と。私が師事していたブーちゃんこと伊藤昌哉(政治評論家・池田首相元秘書官)に伝えたら、とても興奮していた。「本当に言ったのか」と。
通信社: 池田が大平に下命していたんだな。大平はそれを田中に伝え、自身は外相として支えたわけだ。
――田中内閣は74年12月に退陣。76年2月、ロッキード事件が明るみに出て、7月に受託収賄等の容疑で逮捕されるが、79年10月、11月の「40日抗争」を勝ち抜き、翌年6月の衆参W選でも存在感を見せつけ、キング・メーカーの名を恣(ほしいまま)にする。逮捕から7年余の83年10月12日午前10時、東京地裁の最上階「701号法廷」。そこで行われた第一審で懲役4年の実刑判決が下る。
首はどこにあるんだ
地方紙: その瞬間、角さんの首筋がみるみる赤く染まっていきました。記者席の僕らを睨みつけたその怒りが目白で弾ける。新潟日報が翌朝刊でスクープしますが、ヤクザの親分の出所祝いよろしく集まった軍団を前に「絶対許さん。ついて行くのが迷惑なら帰ってもらっていい。選挙だ。中曽根(康弘・首相)? あんなのシャッポ(帽子)だ。ダメなら代えればいい」と長広舌をふるった。「12月18日」と選挙の日取りまで言い当てた。
全国紙: 選挙で禊を受けたかったわけだね。無罪主張のために日本中を利用した。
ブロック紙: 解散権は首相の専権事項なのにね。まさに闇将軍の面目躍如だ。
地方紙: 総選挙で角さんは22万761票を取る。談話を貰おうとダメ元で電話したら、機嫌良く「声なき声の爆発だ」と言っていました。僕らが22万票というと窘(たしな)められた。「ちゃんと761まで言え」と。彼は復権を意識し、派内は混乱していく。
通信社: この選挙、自民は大敗したが、田中派だけが勢力を伸ばしたので、相対的に田中の発言力が増す。翌84年10月の総裁選では、「目白の角印がなければ首相は決まらない」と言われるほどの絶頂期だった。
TV: 本命は宮沢喜一でしたが、夏の軽井沢に集った僕らに角さんは「金襴緞子(きんらんどんす)のお姫様より泥で汚れた足を洗ってくれる下女の方がいい」と語りかけました。
ブロック紙: シャッポと言った中曽根再選支持だね。
TV: 事はそれで収まらず、野党を巻き込んだ「二階堂擁立劇」が噴き出す。これを竹下(登・蔵相)と金丸(信・総務会長)が封じるのですが、田中派の若手は、自派から総理・総裁を出せないことに苛立ちを募らせ、84年末に秘密裡に会合を持つ。その集まりの後に小沢一郎は「おやじ(=角栄)はフレキシブルではなくなった。どんな権力者だって人の心に芽生えたものは抑えつけられない」とブツブツ私に語ったものです。これを察知し、面白くない角さんはウイスキーに頼り始める。
地方紙: 迎えた85年正月。目白には「ますます繁盛」に引っ掛けて2升半の大瓶の酒がいつものように置いてありました。ただ、お屠蘇気分とは無縁の角さんは「謹賀新年、元旦とだけ言っておこう」とひと言。
全国紙: 年末までは「60歳で政治家を辞める」などと我々を煙にまいていた還暦の竹下も「今年の目標は大蔵大臣を辞めること」と天下取り宣言をした。
TV: 1月27日、目白を訪ねた竹下は「創政会」立ち上げの意向を伝える。3年経って竹下が振り返ってくれたのですが、「(明治の)太政官布告以来、県会議員(経験者)が総理になった例はない。お前は俺がもう一度やってからにしろ」、こう角さんは言ったと。で、後に引けぬと竹下は決断します。
全国紙: この日、竹下はかなり緊張していて、「玄関の三和土(たたき)までスリッパで降りてきた」と直紀が証言している。佐藤昭は「竹下なんて国会答弁要員よ」と言っていたほどで、角栄にとって竹下は「下足番」でしかなかった。
地方紙: そんな竹下に裏切られた衝撃は大きく「保守党にあって世代交代とは革命。絶対許さん」と凄い形相でした。創政会から外された渡部恒三が「直紀も含め全員で創政会に入れば勉強会は有名無実化する」と言うと、「だからお前はダメなんだ」と一喝され、涙をこぼしていましたね。
通信社: 結局2月7日、創政会が40人で結成され、13日に竹下、梶山静六、小沢一郎らが目白を訪ねた際、田中からあの有名な「同心円で行こうや」発言が出る。党内に関係修復アピールを試みたわけだ。
地方紙: 我々も同席を許されましてね。上ずった声で梶山が「首を差し出しにきました」と角さんに言う。「うん? 梶山くん、君の首はどこにあるんだ。君の頭は胴体に直接ついているんだろ」と角さんが口走る。苦笑いしているから余計に迫力がありました。
全国紙: そこからウイスキーの量が増え、1日1本だったのが2本へ。赤坂の「千代新」という料亭で番を集めて呑んだ時など、スタートが午後3時だった。
ブロック紙: 脳梗塞で倒れるのが2月27日。その1週間前、目白へ朝行くとオールドパーをストレートで呑んでいて全く話にならなかった。“自壊”だったな。
TV: 27日は僕にとってとても苦い1日です。2年前に当選した直紀を囲む会が柳橋の料理屋でセットされていたのですが、待てど暮らせど来ない。当たり前ですよね、角さんが午後5時に倒れ、東京逓信病院に入院しているわけだから。けれど我々はそのことを知らない。9時くらいにお開きになり、顔を見せていたお付きの秘書を目白駅まで送っていくことになった。私邸前も通りましたが、大門は開いたままで電灯は煌々としていた。主人が戻っていないのを意味しているのですが、なぜかやり過ごしてしまった。
地方紙: 大失態でしたね。秘書が駅で降りた後、反対車線に渡るのがバックミラー越しに見えた。角さんが倒れたのを知っている彼は来た道を引き返し、目白の私邸に戻ろうとしたのでしょう。当時、金丸事務所へ12時に電話し、動きがないか確認するのが日課だったのでそうしたら、「何もない」という返事で、安心して3時まで酒を呑んだんです。
TV: それで5時のNHK。
地方紙: そう。朝起きるのが辛いから、あるおばちゃんにラジオのニュースを聞いてもらうバイトをお願いしていたんです。彼女は電話で、「角栄が風邪で入院」と告げるんですが“風邪ならいいかな”と睡魔に身を任せた。今度は自分で6時のニュースを聞いたら、やはりそう言っている。一応、共に深酒した仲間に教えてやろうと電話し、うち1人から「風邪で入院するわけないだろ」と怒られて目が醒めた。
TV: 当時、山に近いところに住んでおり、雪のせいで始発が随分遅れた。気持ちだけがはやったなあ。
地方紙: NHKがなぜ察知できたかというと、あちらの記者が田中派重鎮の小沢辰男、郵政省の役人と麻雀をやっていた。角さんが入院した逓信病院は郵政省の管轄だからそこに連絡がきた……というわけなんですが、直紀を責めましたよ。「あなたは取材の機会を奪った。せめて今日はやめにしようと言ってくれればよかったのに」と。代わりに「真紀子の単独インタビュー」とか色々と提案したけど、尽(ことごと)くはねられました。
全国紙: 番として悲劇だね。
TV: 続きがあります。5月4日は角さんの誕生日で、大型連休の真っ只中。病院にベタ張りしなくてもいいかと勝手に判断して持ち場を離れたら、東京新聞の5日朝刊に「角栄、赤羽の河川敷でゴルフ」と抜かれた。
全国紙: 僕らは翌日が完全休刊日だから追っかけることすら叶わない。
通信社: たまらないね。
ほくそ笑む男たち
通信社: 皆、番の鋭い目に戻ってきたところで、そろそろ総括していきましょうか。
ブロック紙: ものの見方が独特で、例えば「米作農民を農民と考えるからいけない。あれは公務員。作った分だけ買い上げてもらえるしクビになることはない。で、いつもベアをやっている」と話していた。開けっぴろげでね。「(自身の婚外子の)認知のために役所に行ったら『松野さん、松野さん』と呼ぶ声がして、見たら松野頼三(元農林相)だった」と言うし、国会内のトイレで一緒になれば「最近寂しいんだ、こっちの方がおしっこ専門の穴になっちゃってね」と漏らす。
TV: オールドパーをストレートで呑んでいた話が出ましたが、「せめて水割りにしたらどうですか」と言うと、ぽたぽたぽたと水を垂らして「水割りだ」と。愛嬌があったなあ。
地方紙: そうですね。「人事を追うような記者は大成しない。勉強しろ」と口酸っぱく言われたけど、「とはいえ官房長官は誰ですか」と食い下がると、ヒントを書いたメモをわざと落としてくれたことがある。また、ロッキード裁判について聞いた時には、「(孫の)雄一郎が学校から帰ってくると泣いてる。『お前のじいちゃんは被告人だと言われ、体育館の後ろで砂を投げつけられた』と。俺は卸し金で背中をごしごしされても平気なんだが、こればかりは……」と吐露していた。
全国紙: ロッキードにしてもそうだけど、嫌なテーマでもちゃんと答えるし、とにかく頭が良い人だった。今の政治家とは全然違いますよ。産経にいた額賀(福志郎)は佐藤首相番をやっていたんですが、僕の書いた原稿を「ちょっと拝借」と自分の原稿にしたこともあった。そんな人物が田中派の流れを汲む派閥のボスだから何をか言わんやだよ。
地方紙: 額賀の先輩で、産経政治部から佐藤(首相)の首席秘書官に転じた楠田實が角さんを「ダーティーと言うけれど果たしてそうか。歴代首相の中では最もクリーンな総理だ。金権と言えば言うほど、ほくそ笑んでいる男たちがいる」と評していた。過去の首相の裏には常に右翼が黒子のように張り付き、彼らとの付き合いは闇だった。ロッキードの5億どころではない大金が動いていたと示唆しているのです。
全国紙: カネは派手に多方面にばら撒いたけど、椎名悦三郎(元外相)によれば「集めはしたが角栄のところは素通りしている」そうだ。
TV: 戦後の混乱期、エスタブリッシュメントが再形成過程にあり、自民党はまだ存在しなかった。そのタイミングで議員バッジをつけたのが奏功し、角さんは政治の中枢に入り込むことができた。そのインナーの場で「岸、池田、佐藤……誰の力も借りずにトップになったのは俺だけ」と胸を張ったし、当選年次に重きを置いていたから年長の福田赳夫でも“福田君”と呼んだ。軍隊と同じで「星の数でものを言う」ことにプライドを持っていた。例えば徳洲会の徳田虎雄も角さんと同じく“外からの突入”を試みたタイプだけれど、跳ね返されてしまったのとは対照的です。
通信社: 語れば語るほど、田中はいまだ毀誉褒貶の十字路に立たされている、そして番として聞きそびれたことがまだ山のようにある、そう感じるね。(敬称略)