ルーズベルトがニューディール政策を実施する

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 1932年の大統領選挙で、民主党のフランクリン・D・ルーズベルトが当選。

 この頃、アメリカ経済の状況は、どん底に達していた。1300万人から1400万人が失業しており、900万人が蓄えを失っていた。

 ルーズベルトは、1933年3月4日に大統領に就任。就任演説でつぎのように国民に訴えた。

「恐れる必要があるのは、恐怖そのものだけだ」。

 ルーズベルトの経済政策は、「ニューディール」と呼ばれる。New Dealとは、「新規まき直し」という意味だ。

 この政策は、政府の介入や経済政策は限定的にとどめるべきだとする古典的・自由放任主義からの脱却だと言われる。そして、これに影響されて各国の政府が市場経済に積極的に関与する政策へと転換し、第2次世界大戦後の経済政策に大きな影響を与えたとされる。

 ルーズベルトは、就任から100日足らずの間に、15の重要な法律を成立させ、多くの政府機関を設立した。TVA(テネシー川流域開発公社)などによる公共事業を実施し、何万人もの人が仕事に復帰した。

 ニューディールの第1期では、救済と復興に政策の中心がおかれた。金融面では、金融資本主義の要である銀行システムを強化しようとした。

 グラス=スティーガル法は、1933年6月に上院を全会一致で通過し、ルーズベルトが署名して成立した。これは、証券と銀行の分離、連邦準備制度の強化、預金者保護のための連邦預金保険公社(FDIC)の設立、要求払い預金への利子の禁止などを内容としていた。証券と銀行の分離は、商業銀行から投機的精神を撲滅して企業の安定経営を図るものであった。連邦準備制度については、決定権を従来の連邦準備委員会から連邦準備制度理事会(FRB)に移し、すべての銀行を連邦準備制度に加盟させた。

 このときに行われた金融制度の改革は、その後ロナルド・レーガン時代に至るまでのアメリカの金融制度の基礎となった(1999年11月、グラス=スティーガル法が廃止され、グラム=リーチ=ブライリー法が可決されて、銀行・証券・保険を兼営する総合金融サービスが自由化された)。

 しかし、第2期においては、社会保障制度の樹立、労働関係法の制定され、税制改革や銀行制度の改革など、より急進的な社会改革に力点が移り、ニューディールの「左旋回」と呼ばれた。

なぜこうなったのか?

 なぜこのような大恐慌が生じたのか? そして、なぜそこから脱出できたのか? これは、現在に至るまで、論争が尽きないテーマだ。

 一般には、不況が深刻化したのは、ハーバート・フーバーが自由放任主義をとったからだと言われる。それに対して、フィリップ・コガンは、『紙の約束』(日本経済新聞出版社、2012年)で、 つぎのように言う。

 まず、財務長官のアンドリュー・メロンは、当時の多くの経済学者と同様、経済は放っておけば常に均衡を見出すと考えていた。労働者が失業するのは賃金が高すぎるからであり、賃金を下げれば労働者は仕事を見つけられるとした。物価が下がっているのだから、それによって労働者の生活水準が損われることはないだろう。

 しかし、コガンによれば、フーバーは、賃金を下げれば需要がさらに落ち込むだろうと懸念し、企業に賃金カットを行わないよう求めた。このとき、ジョン・メイナード・ケインズの『一般理論』はまだ発表されていなかったが(刊行は1936年)、フーバーは総需要について懸念を抱いていたのだ。

 だから、「フーバーを反動主義者、ルーズベルトをリベラルなケインズ主義者とみなすのは、誤りだ」とコガンは指摘する。実際、フーバーは1931年に予算が赤字に転じることを認めたし、ルーズベルトは1932年に均衡予算を支持するキャンペーンを張ったくらいだ。

 一方、金融が不況を深刻化したことは、多くの人が指摘する。

 経済学者のミルトン・フリードマンによれば、問題は1930年代に銀行システムが崩壊したことであった。「企業が倒産し、銀行が損害を被って倒産し、企業は資金への糧道を絶たれる」という「スパイラル効果」が発生したというのだ。これは、後にベン・バーナンキが「フィナンシャル・アクセラレータ」と名付けたものだ。市場暴落で痛手を受けた銀行は貸し渋りに走る。貸し出しの減少は経済成長を阻害する。そして、経済成長の落ち込みが銀行の損失の増加につながる。こうした負の循環が繰り返された。

 FRBは経済が確実に悪化する様子を目の当たりにして、1929年の終わりに行った景気刺激のための介入は失敗だったと思い込んだ。したがって、追加の介入は無謀と考えた。まだ預金保険制度が存在せず、倒産した銀行に預けていた預金は、残らず失われた。

 雇用危機は大恐慌の最も悲惨で根深い問題の1つだった。失業率は1931年に15.9%に、さらに1932年に23.6%に上昇した。ニューディールの取り組みにもかかわらず、1934年から36年の失業率の平均は、約20%という高い水準だった。

 1941年に、アメリカは第2次世界大戦に参戦。軍事費の未曽有の増大によって、アメリカ経済は恐慌から完全に立ち直り、顕著に拡大していった。

 大恐慌が終わったのは、ルーズベルトのニューディール政策のおかげだったのか、それとも戦争によって兵器や物資、およびそれを生産するための労働力が必要になって景気が刺激されたおかげだったのか。これについては、現在まで論争がある。この論争は、ケインズ主義者と自由市場主義者との議論に、長年にわたり何度も顔を出すことになる。

野口悠紀雄
1940年東京生まれ。東京大学工学部卒業後、大蔵省入省。1972年エール大学Ph.D.(経済学博士号)取得。一橋大学教授、東京大学教授などを経て、現在、早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問、一橋大学名誉教授。専攻はファイナンス理論。1992年に『バブルの経済学』(日本経済新聞社)で吉野作造賞。ミリオンセラーとなった『「超」整理法』(中公新書)ほか『戦後日本経済史』(新潮社)、『数字は武器になる』(同)、『ブロックチェーン革命』(日本経済新聞社)など著書多数。公式ホームページ『野口悠紀雄Online』【http://www.noguchi.co.jp

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