美空ひばり「不死鳥コンサート」から30年 橋幸夫が語る“1曲目で察知した秘密”

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 東京ドームに“女王”の歌声が響き渡ると、固唾を呑んで見守っていた5万人の聴衆からは、怒濤のような拍手と歓声が沸き上がった。昭和63年(1988)4月11日、伝説の「不死鳥コンサート」で、美空ひばりは奇跡の復活を果たす。しかし、デビュー直後から“お嬢”と親交のあった歌手・橋幸夫だけは“異変”に気づき、悲痛な思いでステージを見つめていた。

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 運命のコンサートを直前に控え、ひばりは読売新聞の取材にこう語っている。

〈一番危険なことに挑戦するのが、ひばりらしいと思うの。それに、私と同じ昭和12年生まれの球場が壊されて、新しい建物になったことを、私の再スタートのきっかけにしたかった〉

 だが、そのわずか1年前、彼女は芸能生命を揺るがす窮地に立たされていた。

 ツアー先の福岡で足腰の激痛に耐えられなくなったひばりは、緊急入院を余儀なくされる。検査の結果、重度の慢性肝炎と大腿骨頭壊死症という難病が発覚。入院生活は3カ月半に及び、一時は“再起不能”とまで報じられた。しかし、彼女は懸命のリハビリを経て歌手活動を再開するのだ。

「退院から1週間後、目黒区青葉台の自宅に伺ったんです。その時、翌年4月の東京ドーム公演が復帰の舞台だと聞かされました」

 橋本人が当時を振り返る。35年に「潮来笠」でデビューした橋は、翌年に雑誌の対談でひばりと出会い、親交を深めていった。

「あの日は夕飯をご一緒したんですが、居間にはママ(実母の加藤喜美枝)と弟たちの遺影が飾られていました。お嬢は病気で身体が痩せ細っただけじゃなく、抜け殻のようでした」

 最大の理解者であった母親は56年7月に死去。さらに、かとう哲也と香山武彦という2人の弟も58年、61年に相次いで亡くなっている。 

「遺影を眺めながら、“お嬢はひとりになっちゃったね……”と言うと、“私はまだ歌いたいんだけど、これから何のために歌えばいいのかねぇ”と寂しそうに呟くんだ。僕はどう声を掛ければいいのか分からず、黙ってしまった。終いには2人でボロボロと涙を流してね。言葉にならなかった」

 昭和歌謡界を代表する歌姫が、心身ともに限界を迎えていたのは疑う余地もない。それでも彼女は、東京ドームでの“復活劇”に全てを懸けたのである。

 そして、ついに伝説のステージが幕を開ける。

「コンサート当日、僕は、お嬢の楽屋に顔を出しませんでした。彼女の命懸けの舞台を、ひとりの観客として見届けようと思ったからです。開演までの時間は本当に長く感じられました」

 橋は、コンサートのために特設された花道のすぐ脇の席にいた。周囲には島倉千代子や森光子、萬屋錦之介といった、ひばりと縁の深い芸能人の姿があった。 

 まもなく、コンサートの幕開けを飾る「終りなき旅」のイントロが流れ、不死鳥をイメージした、黄金色のドレスを身に纏ったひばりが静かに歌い始める。

 その瞬間、会場は歓喜に包まれた。

“お嬢、がんばって”

 2曲目の「悲しき口笛」で伸びやかな高音を披露したかと思えば、続く「東京キッド」ではリズムに合わせてステップを踏み、軽快な歌声で観衆を魅了する。「お祭りマンボ」に至っては、神輿を担ぐ身振りをしながら“ワッショイ!ワッショイ!”と満場の客席を煽ってみせた。

 その後、「リンゴ追分」を力強く歌い上げたところで第1部が終了する。

 興奮冷めやらない観衆の誰もが確信していた。大病を克服して“女王”が見事に蘇った、と。

 しかし、ただひとり、橋だけは全く異なる感情を抱いていたのである。

「僕は1曲目の、最初のフレーズを耳にした時点で、“絶好調のお嬢とは全然違う”、“歌に力がない”と感じました。若い頃から彼女の大ファンで、しかも、僕自身がプロの歌手です。お嬢の体調は歌声を聞いただけで分かります。あの日は歌に力が乗らないのを、技術でカバーして体裁を保っていた。お嬢も自分の歌声にガッカリしていたのだと思います。ステージ上で何度か首を傾げることがありましたから……」

「真赤な太陽」で第2部がスタートすると、ひばりは真紅のドレスに身を包んで登場し、万雷の拍手を浴びた。アップテンポな曲調に歌声にも力がこもる。

 その一方で、「われとわが身を眠らす子守唄」のようなスローな曲では、舞台に設置された長椅子に腰かけて歌うこともあった。

「元気な頃のお嬢なら舞台に椅子が用意されていただけで“余計な気を遣って!”と怒ったと思います。座って歌わざるを得なかったのは、体力が限界だったからでしょう。それでも、ファンの前で辛い顔を見せないのがお嬢の凄いところ。休憩を挟んで公演が再開した後、彼女は、“いま、幕間で体重計に乗ったら5キロ痩せてました”と言って、会場を沸かせました。ファンの心配を逆手にとって、そんな冗談を言うんですよ」

 さらに、ひばりのMCはこう続いたという。

〈私はこれからも歌をがんばりたい。恋もしたい。人間、色気を失うと、歌にも色気がなくなるんです〉

「お嬢は若い頃から沢山の恋をしてきたけど、なかなか幸せを掴めなかった。でも、恋が歌手を輝かせることを自分の経験で知っていたんですね。心身ともにボロボロの状態でも、向上心を失っていなかった」

 大盛況のうちに、コンサートは「人生一路」で幕を閉じた。満身創痍の歌姫は、しかし、2時間20分に及ぶ長丁場を乗り切り、実に39曲を歌い切ったのである。 

 全ての演目が終わると、観衆の声援に応えるため、ひばりは長い花道をゆっくり歩み始めた。

「途中で涙を拭っていましたが、あれは感極まって泣いてしまったのと同時に、力を出し切れなかった悔し涙でもあったと思う。僕の脇を通った時、“お嬢、がんばってね”と目で合図を送ったら、彼女は“うん”と瞼を閉じて頷きました」

 終演後、ひばりは救急車で東京ドームを後にした。 

 このコンサートからわずか1年2カ月後の平成元年6月24日、女王は52年の生涯を閉じる。

 昭和を代表する不世出の歌姫は、まさにその時代の終わりとともにこの世を去ったのである。

週刊新潮 2015年8月25日号別冊「黄金の昭和」探訪掲載

ワイド特集「『スーパースター』運命の一日」より

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