レーガンが署名した“最高機密”対日戦略「NSDD第62号」の中身――NAKASONEファイル
機密指定解除「NAKASONE」ファイル(3)
1982年11月25日、自民党総裁選で中曽根康弘氏は勝利した。実はその1カ月前、レーガン大統領は対日戦略を決定する重要文書に署名していた。「ロン・ヤス」関係が、まさに米国の用意周到なシナリオの産物であることを証明する、最高機密の中身とは――。
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まだ東西冷戦が続いていた1980年代、日米をかつてない強い絆で結んだのがロナルド・レーガン大統領と中曽根康弘総理の「ロン・ヤス」関係であった。両国の首脳が互いにファーストネームで呼び合うのは歴史上初めてとされ、わが国の存在感を世界に知らしめた。
そのきっかけになったのが83年1月19日、中曽根が訪米した際のレーガンとの朝食会だったという。
今のドナルド・トランプ大統領と安倍晋三総理の「ドナルド・シンゾー」関係を彷彿とさせるが、そもそも超大国の指導者がいくら気に入ったとはいえ、こうも簡単に胸襟を開くものか。じつはその裏には米国の国益を第一に考えた綿密な戦略とシナリオがあったのでは。こう考えた私は30年余りを経て機密解除されたレーガン政権の公文書を調べてみた。そして、その中に“中曽根ファイル”とも言うべき大量の対日政策文書が含まれる事が分かってきた。
予想した通り、「ロン・ヤス」関係はレーガンの咄嗟の思いつきなどではなかった。その陰の演出者たちの動きは中曽根政権誕生の直前から始まっていたのだ。
82年10月12日、当時の鈴木善幸総理が突如、退陣を表明した。自民党の総務会長を長く務めた鈴木は調整型の政治家として知られたが、外交は不得手でもあった。前年の日米首脳会談後には日米同盟に軍事的意味合いはないと発言し、外務大臣が引責辞任する事態にまで発展している。
後継者に熱い視線が注がれる中で手を挙げたのは鈴木内閣の中曽根行政管理庁長官、河本敏夫経済企画庁長官、安倍晋太郎通商産業相、そして中川一郎科学技術庁長官の4人だった。党員、党友による予備選挙の実施は11月24日と決まり、各候補の派閥は猛烈な支持獲得合戦を続けていた。
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