「王貞治」対「ハンク・アーロン」ホームラン競争 真の勝者は
真の勝者はどっちだったのか――。昭和49年(1974)11月2日。後楽園球場で、ある“一騎打ち”が行われた。決戦の主役の一人は、当時、大リーグ新記録である733本のホームランを打っていたハンク・アーロン。対するは、我らが日本プロ野球界の王貞治。日米を代表するホームランバッターが、ホームラン競争に臨んだのである。
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「下馬評では王さんが勝つと言われていました」
と回想するのはメジャーリーグ評論家の福島良一氏である。当時高校生だった福島氏は実際にこのホームラン競争を後楽園球場で観戦していた。
「アーロンはすでに選手として晩年にさしかかっていました。しかもシーズン終了後1カ月以上が過ぎているうえに、長旅の疲れもあった。かたや王さんはシーズン終了直後で、タイトルも奪取していた。絶好調だったはずです」
だが、結果を先に明かせば、アーロンの10本に対し王の9本と、僅差だがアーロンが大リーグのホームランキングの実力を見せつける格好になったのである。一本足打法を開発し、“三振王”とまで呼ばれるほど低迷していた王の打撃を徹底的に改良した、「育ての親」の荒川博コーチは、この結果を、
「体も違うし、日本の球場は狭い。最初からアーロンが勝つと思っていた」
と振りかえる。しかしその一方で、「絶対に王さんが勝っていた」と、この結果に異を唱える人物がいる。それも、この競争をグラウンド上の身近な場所で目撃した人物なのである。
「あれは王さんが勝っていたはずなんです」
と証言するのは、峰国安氏だ。峰氏は、元大洋ホエールズ投手で、後に巨人で打撃投手になった。王の練習で投げるのは専ら峰氏で、「王の恋人」と渾名されるほど信頼を得ていた。
「ホームラン競争の2、3日前、王さんから投げてくれ、と頼まれたんです。当日はものすごく緊張した」
直々に指名された峰氏によれば、あの日、王はあと2本、大飛球を放ち、実際には11本のホームランを打った、という。峰氏は当時を、こう述懐する。
「悔しくて球審に抗議したいくらいでした」
果たして王は勝っていたのか? 峰氏が見たという2本の“幻の大飛球”は本当にホームランだったのだろうか?
その検証の前に、このホームラン競争のルールと試合展開を振りかえっておこう。現在おこなわれるホームラン競争は10回打って何本柵越えするかという方式が主流である。一方、王・アーロン戦はフェアゾーンに飛んだ打球5本を1ラウンドとして、合計4ラウンドのうち何本のホームランを打ったかを競う変則的なものだった。使用するのは日本製のボール。コイントスの結果、王は先攻を選んだ。
そして、1ラウンドから順に3、3、1、2の合計9本のホームランを峰氏から放った。後攻アーロンは、メッツのピグナトーノ投手コーチから、同じく順に2、4、3、1の合計10本塁打を打った。10対9。結果は、王の負けとなったわけだが、前述の通り、峰氏によれば、実際には2本の“幻の大飛球”があったというのである。そのうちの1本が、4ラウンドの3打球目だった。
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