アメリカが大恐慌に陥る
第1次世界大戦後の1920年代、アメリカは、重工業の発展、モータリゼーションと自動車工業の躍進、ヨーロッパへの輸出の増加などによって、「永遠の繁栄」と呼ばれる好況を手に入れた。1929年9月3日、ダウ平均株価は、381ドル17セントという史上最高値を記録した。
破局は、1929年10月24日に訪れた。株式市場は1日の下げ幅として最大の下落を経験した。寄り付きから数時間で、ダウ平均株価は、20%急落した。この日は、「ブラックサーズデイ」と呼ばれる。
翌25日、ウォール街の大手株仲買人と銀行家たちが行動を起こした。ノミ・プリンス『大統領を操るバンカーたち』(早川書房、2016年)によると、「ビッグシックス」と呼ばれる大銀行の経営者たちが、JPモルガン本社に向かった。1907年にJPモルガンが市場を救ったのと同じことを目論んだのだ。
市場に資金を注入する必要があった。そのために、彼らは、自分の顧客の預金を使った。こうして、銀行関係者から大量の買い注文が入り、ダウ平均株価は2%の下落で引けた。
しかし、これで問題が解決したわけではなかった。
市場は、次の週に再び暴落した。月曜日、そして「ブラックチューズデイ」と呼ばれた火曜日に、ダウ平均株価はそれぞれ13%と12%下落した。数日間で、株価は前月の史上最高値から4割も下げた。
「アメリカの偉大な資産製造機が一夜にして動きを止めた」と、ニール・アーウィン『マネーの支配者』(早川書房、2014年)は形容している。
フィリップ・コガンは、『紙の約束』(日本経済新聞出版社、2012年)で言う。「大恐慌は、自国をチャンスの土地とみなしてきたアメリカ人に大変なショックをもたらした。国民の多くが、より良い暮らしを求めてヨーロッパから渡ってきた移民だった。無限の空間と天然資源を有するアメリカは、未来永劫に渡って豊かな富を約束してくれるように思えた。これだけの利点と勤労意欲の高い国民を持つ国が、どうして25% の失業率、3分の1生産額の減少に苦しむことになったのか?」
大規模な銀行は、FRB(連邦準備制度)の慈悲の恩恵を受けた。しかし、小規模な地方銀行や州法銀行は倒れるに任された。倒産した小規模銀行に預金を持っていた人々は、全て失った。
フーバーの約束にもかかわらず、経済は暴落を続けた
当時のアメリカ大統領は、共和党のハーバート・フーバー。アメリカが繁栄のただなかにあった1928年の大統領選挙で、共和党の自由放任の原則の維持を掲げて、圧倒的な支持で当選した。1929年3月の就任演説で、「永遠の繁栄」を約束した。
彼の経済政策理念は、政府は企業や個人の経済活動に介入してはならないとする自由放任主義の立場だった。 そして、不況は周期的なもので、景気はまもなく回復すると考えていた。1930年のメーデーで、「今や最悪の状態は過ぎ去った」と国民に宣言した。
しかし、「好景気はもうそこまで来ている」、「経済は安定している」という彼の度重なる声明とは裏腹に、株式市場では、1932年7月7日にダウ平均株価が41ドルという安値に達するまで、2年以上下げ相場が続いた。
プリンス『大統領を操るバンカーたち』によれば、経済は大暴落のためだけでなく、それまでの行き過ぎとその行き過ぎを支えるための借金のせいで深刻な打撃を受けていたのだ。
あまりに多くの債権がデフォルトになり、あまりに多くの企業が倒産し、あまりに多くの人が職を失った。
家主たちは賃貸料を払えない店子を次々に放り出した。住宅の差し押さえが急激に増えた。小規模企業は、売り上げが落ち込んだため、営業費用をまかなえなくなっていた。借入金の金利は、もちろん支払えなかった。
プリンス『大統領を操るバンカーたち』によると、1930年には1350の銀行が破綻し、1931年には2293行、1932年には1453行が破綻した。小規模な銀行が最も業績が悪かった。1933年に入ると状況はさらに悪化し、1月だけで273の銀行が破綻した。残していた預金を引き出そうと人々は銀行に殺到した。
雇用を増やし、従業員を優遇したことで有名なヘンリー・フォードでさえ、デトロイトの自動車工場の多くを閉鎖し、7万5000人を失業させた。
世界経済がアメリカ経済に依存する体質になっていたため、アメリカの不況は、世界的な不況へと広がっていった。1931年にはイギリスが金本位制を放棄した。1929年から32年の間に、世界の工業生産は半減したと言われる。不況がとくに深刻だったのは、ドイツだった。
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