「古里で人生を」飯舘村帰還を選択した81歳自治会長の「決断」

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 東京電力福島第1原子力発電所事故から7年、福島県飯舘村の村外の仮設住宅では、新生活を選ぶ住民たちの退去が相次いでいる。その1人が、福島市内にある松川工業団地第1仮説住宅で自治会長を務めてきた木幡一郎さん(81)だ。村の自宅の建て直しを終え、3月30日に仮設住宅を引き払い帰還した。自宅では当面1人暮らしで、もはや農業を再開する余力もない。ただ「人生を古里で全うしたい」と願う。

入居者は引っ越しで半減

 2011年3月11日の原発事故後、約6500人の飯舘村民は政府の指示で村外に避難し、古里の家や集落を離れ、3~4世帯同居が当たり前だった家族はばらばらに離散した。同年7月末、村から車で40分ほどの福島市松川町に松川工業団地第1仮設住宅が開設され(他に4市町の5カ所の仮設住宅が開設された)、翌月の自治会発足時には115世帯の住民が入居していた。

 春の彼岸を前にした今年3月半ば、筆者は通いなれたこの場所を訪れた。好天ながら「早春賦」の歌の通りの風の冷たさで、プレハブの仮設群はしんと静まりかえり、外を歩く人の姿も見えなかった。だが、それは寒さのせいだけではなかった。

「今は62世帯、95人まで減った。去年の3月末に避難指示が解除になってから、引っ越していく人が増えて。来月にも10世帯、5月の連休にさらに10世帯、お盆に予定している人もいる。引っ越し先はさまざま。3分の2以上の人は村外に決めている」

 敷地の外れにある別棟の談話室で、入居者の世話役である管理人を村の嘱託で務めていた高橋よう子さん(67)が近況をこう語った。4年間務めた管理人を先ごろ辞め、4月中に同村小宮地区の自宅へ帰る予定だ。近隣の帰還者は少なく、夜は真っ暗になるという。

「仮設暮らしの間に義父母が亡くなり、今は夫と2人。避難する前はタバコと、家族で食べる分くらいのコメを作っていたけれど、この年ではもう再開は無理。取りあえずの日課は夫婦で散歩することかな」

 やがて、そろいの緑色のビブスを羽織った女性の班長たちが、仮設住宅の棟々の巡回を終えて談話室に戻ってきた。「お疲れ様。寒かったろう」とねぎらった木幡さん。自治会発足以来務めてきた会長にとっては、いつもと変わらない光景だったが、心のうちでは自治会長の重責を半ば下ろしていた。「2月25日に入居者たちの『お別れ会』をやったんだ」

 木幡さんらは3月11日に自治会の総会を開き、3月いっぱいで解散することを決めた。「苦労を共にしてきた班長たちにも、3月30日の活動を最後に退任してもらうことにした。私は、班長たちの退任を見届けて、その日に仮設住宅を去り、村に帰ると決めているんだ」

 自治会が発足以来詰め所としてきたのは、仮設住宅の中央にある広い集会所だ。自治会の会合だけでなく、入居者たちの集まりや催しを開く場所だった。そこは3月1日から改装工事で閉鎖されており、4月から村役場の出張所に看板を掛け替える。生活支援課と村社会福祉協議会の職員が入り、入居者のお世話役を自治会から引き継ぐことになっている。

入居期限は2019年3月末

 福島県内の原発事故被災地の仮設住宅は、開設の期限が2019年3月末。昨年3月に避難指示は解除されたが、県は「公営住宅の整備、自宅の建築・修繕等住居の確保の状況を踏まえて」入居期限を1年延長した。この仮設住宅では、これから村の自宅を改築して帰還する計画の人も、まだ身の振り方が決まらない人もいる。独居の高齢者ら20世帯ほどが最後に残りそうだといい、村が建設中の復興公営住宅が受け皿になってくれるとの期待が寄せられている。現に村内に設けられた復興公営住宅には、90歳で単身、帰還を希望した人が入居したと聞いた。

 木幡さんは言う。

「避難生活の6年半、この仮設住宅で和やかな仲間の輪をつくってきた。だから、『ここにもっといたい』という人が多かった。でも、避難指示解除後のこの1年、あえて『1日でも早く、新しい生き場所を見つけてほしい。皆で前に進まなくては。思い切って決断しよう』と呼び掛けてきた」

 入居者がなかなか前に進めずにいたのには、訳がある。後述するが、彼らは別の帰村の形を思い描いていたからだ。

放射能の怖さ、分からず 

 もともと木幡さんは、村役場がある同村伊丹沢地区の農家だった。90アールの水田とタバコ栽培を営み、和牛5頭を飼って子牛の繁殖も手掛けた。村議会議員を2期務め、地区の老人会会長でもあった。原発事故の2年前に奥さんを亡くし、南相馬市の土木建築会社に通勤する長男と2人暮らしをしていた。

 福島第1原発事故が起きると、原発から30キロ以上離れた山間の飯舘村は当初、原発に近い海沿いの浪江町や南相馬市からの避難者たちを受け入れ、支援する側だった。やがて村内でも異常な放射線量が測定され、若い世代の自主避難が始まったころ、木幡さんは体の異変を感じた。歩行に不自由を覚え、郡山市内の病院で「動脈瘤」と診断されたのだ。人工血管を入れる手術で1カ月の入院をした後、心配した埼玉県在住の娘さんの家に、静養を兼ねて避難。再び自宅に戻ったのは6月上旬だった。

 その時には、村の全住民を対象にした政府の避難指示が既に出され、「地元にはほとんど人がいなかった」。長男に留守中の世話を託していた和牛の姿もなかった。約3000頭に上った村内の牛たちは競売にかけられるため県家畜市場に運ばれており、木幡さんの目に映ったのは、作付け全面禁止になった田畑とともに、信じがたい「空白の風景」だった。

「放射能の怖さに何の知識もないまま、長男と2人きりで家にとどまった。水、ガス、電気はあったが、村内には店も残っておらず、食料品を隣の南相馬市や川俣町で買い求めて食いつないだ」。

 しばらくして、松川第1仮設住宅の入居募集を役場から教えられ、木幡さんは福島市、長男は職場のある南相馬市に分かれて避難することを決めたという。

和やかな仲間の輪つくる

 仮設住宅の自治会発足の際は、村議会議員や老人クラブでの活動、穏やかな人柄から「なじみの人が多く、いつの間にか自治会長に推された」。入居者の平均年齢は70歳に近く、1人だけの世帯が多かった。木幡さんも独居の高齢者の1人だったが、「最初は寂しさなどなかった。また人の役に立てるのがうれしかった」と言う。

 だが、自治会はすぐに仮設住宅の運営の難しさに突き当たる。古里と家族、隣人から引き離され、経験したことのない狭い居室での孤独、高冷地の村とは違う福島盆地の暑さに、入居者たちは心身を弱らせた。引きこもり、うつや認知症、敷地外への徘徊などの症状を進ませる人も現れた。

 木幡さんは、初代の管理人だった故人の佐野ハツノさん(2017年10月22日の拙稿「飯舘村『帰還』の哀しみ(上下)」参照)らと知恵を絞り、同年11月から月1回の「お楽しみ会」を集会所で始めた。演芸や歌、踊りなど芸事の出前をしようという支援者をゲストに呼び、「皆でいっぱい笑おう」という時間である。チラシを作り、管理人や班長が居室を回って「出てきて楽しんで」と声を掛けた。

 取材の縁を重ねた筆者も、被災地を回ってフラを教える郷里相馬市の同級生や、「ちんどん」芸の一座を主宰する知人に出前を協力させてもらった。また、宮城県白石市に「スコップ三味線」の名人がおり、佐野さんらが招いた公演が大盛況となり、定例のスコップ三味線教室も生まれた。バスに乗っての遠足(小旅行会)や季節ごとの行事も企画し、春のお花見会「桜まつり」では支援者が提供するウイング車を舞台に、入居者たち自身が主役となる隠し芸大会を盛り上げた。いつしか、「明るく和やかな仮設住宅」という評判が、避難中の村民の間にも広まった。

縁を生かし暮らしたい

 やがて入居者たちが望むようになったのが、「公営の集合住宅を村に設けて欲しい」ということだった。

 2015年、木幡さんは入居者の声をまとめた要望書を村に提出した。自治会が入居者たちの話し合いを何度も開き、語り合った思いや願い、帰還後の不安や夢を、明治大学農学部の服部俊宏准教授(農村計画学)と学生たちが東京から通って丁寧に聞き取り、1つの要望書にまとめたのだ。服部准教授らは2011年秋に初めて仮設住宅を訪ね、年配者たちから「わらじ」作りを学んで以来、草刈りの支援を重ねてきた。「飯舘村の皆さんに、までいな仕事、習いにいこう」(「までい」は「手間暇を惜しまず」「丁寧に」の意味)というチラシを大学でまき、松川第1仮設住宅へのボランティア参加も呼び掛けた。学生たちは孫のように迎えられ、頼りにされ、交流を重ねる中で入居者の望郷の念と深い悩みを知り、2014年春から1年掛かりで意向調査、聞き取り、提案書の取りまとめを手伝った。

 この時、仮設住宅の住民たちが提案したのが、「仮設で培った縁を生かす公営の集合住宅」、それも「プライバシーを保てる平屋の一戸建てが集まった公営住宅」だ。独居の高齢者が家族と離れても孤独死の不安がなく、支え合って暮らせるような場をつくって欲しい、住民の会合やイベントを催せる集会所や広場を備え、介護が必要になった人の世話にも対応できる施設にしてほしい――と。

 皆が思い描いたのは、買い物や通院に使えるバスの運行や移動販売などの生活支援があり、見守ってくれる管理人もいて、独居や夫婦の高齢者が自立を支え合いながら一緒に笑い合える、そんな帰村の形だった。

「家族も隣人も生き場所はばらばらで、元の生活に戻れず、村の相互扶助は失われた。『帰りたいけれど、年を取った身では1人で暮らせない。仮設のコミュニティーをそのまんま持ち帰れたらいいのに』と住民たちは思っている」と、服部准教授も当時の取材で語っていた。その提案が、不安や諦めが先立つ高齢者の「帰還」に、ぬくもりをもたらすかもしれないと、木幡さんも信じていた。

一顧だにされなかった提案

 しかし、その提案が日の目を見ることはなかった。村から一顧だにされなかったのだ。 

 その年、村が新年度の復興施策や除染状況などを説明する住民懇談会を仮設住宅で行った際、木幡さんは自ら菅野典雄村長に要望書を渡し、前向きな検討を訴えた。その後、役場(当時は福島市内の同村飯野出張所)にも提出に訪れたが、村長からは「どこから予算を出すんですか?」と言われただけだった。

 翌2016年3月初め、仮設住宅の集会所で木幡さんは憮然としてこう話した。「村からはその後も反応はない。指示解除まであと1年ほどだというのに」。そして、続けた。「平均年齢が70歳を超える入居者たちの命を守ることが、自治会の大きな役目だった」その仲間たちが避難指示解除とともに、運命共同体の「箱船」のような仮設住宅で培った親密なコミュニティーを奪われ、あの混乱した原発事故後のように、「またばらばらに引き離されて、生き地獄に追われるのではないか」。 

 5、6人の入居者がその場に同席し、それぞれの本音を吐露した。

「村に帰るとしても、スーパーや食料品店、病院はあるのか。診療所は開かれるというが」「若いなら収入も稼げるが、それができない。畑で何かを作っても、風評を払拭させるのは厳しい」「山菜からキノコまで、自然の恵みがあったが、いまは(除染が行われない)山にも行けない」「避難指示を解除するから戻ってください、と国は言うけれど、原発事故の当時は『村を出ろ、出ろ』と言われた。息子の嫁は『だから、いまでも(放射能が)怖い』と話している」「怖いと思っている人はいまだに怖い」

 入居者たちの訴えは尽きなかった。村に帰りたかったという60代の男性は、「家の除染が終わったのに、去年の長雨で裏山が土砂崩れを起こし、家が埋まってしまった。もう住むのは無理。息子がいる南相馬に移住しないとならない。従うほかなくなった」と無念そうに話した。特別なことを何も望んでいないという70代の女性は、「もう1度、ごく普通の生活をしたいだけ。このあたり(仮設住宅のある地元)の人たちがやっているような」

 入居者たちが不安がった状況は、避難指示解除後の現在もさほど変わってはいない。

6年半ぶりのわが家へ

 班長たちが最後の活動をした3月30日の午後、木幡さんが仮設住宅を離れた。6年半余りの避難生活は質素で「居室の荷物は少なく、大きかったのはテレビと寝具くらい」。息子さん、埼玉の娘さんの手伝いで荷物を運び出し、入居者との別れは「近所の人たちに『長い間、ご苦労さまでした』と声を掛けたくらいだった」という。自治会長としてやるべきことをやった思いがあり、別れに感傷的になることもなかった。「やっと帰れると、ほっとした気持ちだった」。

 以前は仮設住宅の入り口に「中華琥珀」というラーメン店があった。原発事故前は飯舘村で営業し、店主夫婦が避難とともに仮店舗で再開。肉がたっぷりの「琥珀ラーメン」が名物だったが、昨年暮れに店をたたんだ。その隣にあった野菜の直売店も、この3月末で閉店。畑の土をいじる日常を失い、コメや野菜を買う生活を初めて経験した入居者には重宝な店だった。「残る人は不便になるな」と木幡さんは同情した。仮設に寂しい影が広がっていた。

 福島市松川町の仮設住宅から、車で隣接する川俣町を経て峠道を越え、県道原町川俣線を通ること約40分、飯舘村伊丹沢の村役場に至る。その手前の集落に、木幡さんが生まれ育った家がある。「以前は屋根の一部がかやぶきの築70年の農家だった」が、新しい家が建っていた。原発事故の後、政府は生活環境の除染に加えて、避難中に痛んだ家屋の解体を無償とし、帰還のための再建やリフォームには福島県の助成や東京電力の家屋への賠償金を充てることができた。それがなくては、現実に帰還も生活再建も不可能な人がほとんどだ。

 木幡さんの家は前年の春に除染と並行して解体され、夏から工事が始まり、帰還の10日前に出来上がったばかりだ。家財道具の大半は納屋に保管していたといい、業者の手を借りて新しい家に運び込んだ。ベージュのサイディングの外壁、焦げ茶色のサッシは真新しいが、周囲の景色は寒々としている。

それでも、ここで生きる

「女房がまめに手入れをしていた」という庭は、避難中に荒れて枯れ草に覆われ、自慢だったドウダンツツジやサザンカ、五葉松の枝が伸び放題だ。「これから手を掛けていくのを日課にしようと思う」。

 庭から続く裏山には、表面の堆積物を除去した除染作業の跡が見えたが、気になる放射線量(空間)は、「除染前に1.7マイクロシーベルト(毎時)ほどあったが、今は0.7くらい」。年間1ミリ(毎時換算では0.23程度)という国の長期の除染目標から比べると、低いとは言えない数値だった。

 庭の外れに倉庫があり、6年半の間、全く動かされずにいたトラクターなどが入っているが、「ここはもともと牛舎だったんだ」。5頭の和牛を避難前、競売に掛けざるを得なかったことを前述したが、木幡さんは、家族同然に世話した牛たちの不在が寂しくてならない。「牛が帰ってきた夢を、よく見るんだ」。猫も飼っていたというが、「仮設に連れて行けず、『何かを食べて生きていろよ』と残していったが、いつの間にか、いなくなっていた」。

 近隣には通りかかる車のほか、人の声も姿もないが、「近所の1世帯が帰ってきている」という。木幡さんと車で、村役場前を通って伊丹沢の地区内を走った。広々とした水田は、除染(汚染土のはぎ取り)後に客土された山砂がそのままで、別の一角には地力回復のためにまかれた牧草が生えている。「今年、稲作を再開する人がいるのですか」と木幡さんに聞くと、同じ地元でも誰が戻って、何をしようとしているのか、全く情報がないという。  

 村に実際に居住している人は、3月1日現在で618人、320世帯(避難しなかった高齢者ホームの入居者らを除けば537人)。最新の住民基本台帳に登録された5864人のほぼ1割にとどまる。

 村では4月から幼稚園と小中学校が開校し、約100人が入る予定だが、福島市など村外からバスで通学する子どもが多いと聞く。「若い人は帰らず、年配の帰還者が多くなる。今、帰ってきても、ばらばらだ」と木幡さん。仮設住宅で2年前に聞いた入居者の声を先に紹介したが、「やはり現実は厳しく、帰らない方がよかった、という人もいる」。幻となった要望書の集合住宅が実現していたら、どうだったろうか。

「それでも、帰ってきたかった。家に着いた時は肩の荷をすべて下ろして、ほっとした。もう田んぼを再開する若さもないが、野菜を自給自足するくらいはできる。これから何ができるか分からないが、誰かの役に立てるかもしれない。この村で、人生を全うしたい」

 そう木幡さんは話すが、住民の自治組織である行政区は活動を停止したまま。避難指示解除から1年を経た今もなお、帰還者は、地域の助け合いも拠り所もない「点」の存在だ。仮設住宅に残る人々は、どんな選択をするのか。

      

寺島英弥
ジャーナリスト。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。河北新報元編集委員。河北新報で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」などの連載に携わり、2011年から東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。

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Foresight 2018年4月8日掲載

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