麻原に“オシメを外せ!”と言ってやる――「オウム死刑囚」2人の科学者
「オウム死刑囚」13人の罪と罰(6)
弁護士一家を殺害後、オウムは総選挙に出て惨敗。国家転覆を企て、武装化を決断。生物・化学兵器の製造にも乗り出した。その中心となったのが、遠藤誠一、土谷正実の2人の科学者である。
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遠藤は1960年、北海道の出身。帯広畜産大学を経て大学院は京大に進み、遺伝子工学を学んだ。87年の入信後、麻原の四女の許嫁(いいなずけ)にもなっているから、麻原の寵愛ぶりがわかるというものだ。教団では「厚生省大臣」の地位に就いた。
一方、そこにライバルとして現れたのが土谷である。1965年、東京に生まれた土谷は筑波大の大学院に進み、有機化学を専攻。91年に出家した。親は猛反対し、ある寺の協力を得て監禁までしたものの、土谷は脱出し、遠藤と共に働くことになる。
ジャーナリストの江川紹子さんが言う。
「遠藤には、ボツリヌス菌、炭疽菌などの製造が命じられた。しかし、彼はそれにことごとく失敗してしまうのです。部下に自分の感情をぶつけてしまう遠藤に対し、土谷は温厚で、比較的慕われていたそうです。そんな遠藤を土谷は嫌っていた」
土谷は麻原に進言し、自らを同じく「厚生省大臣」にしてもらう。教団内では、第1と第2厚生省が並び立つ、異常事態が起きたのだ。
「金ばかりかけて何も作れなかった遠藤に対し、土谷は93年、VXやサリンの製造に成功しています。それに遠藤は嫉妬した」(同)
皮肉にも、こうしたライバル関係が、お互いを高め、次から次へと、化学兵器が製造されることになる。そして、その極北である猛毒サリンは、1994年、松本市で散布され、8名の命を奪ったのだ。
事件後も2人の関係は変わらなかった。怨念募らす土谷は、法廷で遠藤を悪しざまに罵倒。わざわざ遠藤の尋問に立ち、彼の化学知識の少なさを際立たせるような質問をした。弁護人に「後悔していることはないか」と聞かれ、「(麻原に)遠藤を殴っていいと言われたのに殴らなかったこと」と述べたこともあるほどだ。
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