“入信を止めて止めて止めたんだけど…” 「オウム死刑囚」母の後悔
「オウム死刑囚」13人の罪と罰(5)
坂本堤弁護士一家殺害事件の実行犯の1人である岡崎一明は、事件直後の90年にオウムを脱走、麻原を恐喝し大金をせしめるなど、他の12名の死刑囚とはまったく異なった存在である。そして岡崎とは別の意味で“特別”な存在だったのが、早川紀代秀である。麻原より6歳年長。数少ない年上の主要幹部だった。先日、福岡拘置所に移送されている。
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1949年、兵庫県生まれ。神戸大を経て大阪府立大学の大学院で緑地計画工学を学び、卒業後はゼネコン「鴻池組」に就職した。しかし、麻原の著書に出会い、87年に出家。教団では「建設省大臣」の地位に就き、土地の買収に奔走。プラント建設の指揮などもしている。
オウムの「車両省大臣」だった野田成人氏は言う。
「年長者ということもあり、麻原からも一目置かれていました。麻原は、例えば新実なら“ミラレパ”とホーリーネームを呼び捨てにするのですが、早川については、“ティローパ大師”などと階級を付けて呼ぶし、敬語も使う。若い出家信者からは“オヤジ”と呼ばれることも。ただ、しばしば彼らを怒鳴りつけ、怖がられてもいました」
オウムは90年代に入り、ロシアへ進出。「オモテ」で信徒を拡大する一方で、武器や薬物の調達を行うが、その「ウラ」仕事も早川の役割だった。
2009年、死刑が確定。オウム事件に詳しいフォトジャーナリストの藤田庄市氏が言う。
「オウムには社会人経験のない、学校を出てすぐの若者も多かった中、自然と渉外の仕事を任されることになったのでしょう。拘置所で何度も面会しました。精神的に安定していて、麻原からは離れても、仏教からは離れず、瞑想などの修行はしている、と」
最後の面会は確定直後。別れ際、早川は、「また同じことが起こりますよ」と述べていたという。
「麻原というグルがすべてを発しているということが、裁判では認定されていない。それでは同じ事件が繰り返されるだけだ、と言っていたのが印象的でした」(同)
本心か、あるいは、年かさながらも、麻原の暴走を止められなかったことへのアポロジーなのか。
2011年には、死刑廃止団体のアンケートに答え、〈私の量刑判断には不満です〉〈死刑制度について、廃止すべきと思います〉。どうやら「生への執着」は人一倍あるようだ。
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