麻原彰晃、暴走の原点は幼少期 権力維持で求めた“仮想敵”
「オウム死刑囚」13人の罪と罰(2)
一連のオウム真理教事件の死刑囚13名のうち、7名が東京拘置所から各地の拘置所へ移送された。これは、死刑執行のXデーが秒読みであることを意味していている。教祖・麻原彰晃の「罪と罰」を振り返る。
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麻原の軌跡は、オウムの軌跡そのものでもある。
1955年、熊本生まれ。生まれつき左目が不自由で小学校で盲学校に転入した。卒業後、上京して鍼灸院や漢方薬局を営む一方、宗教に目覚め、ヨガ塾を開設。後に宗教団体に発展させ、87年、「オウム真理教」を設立した。
その後、勢力を拡大させる一方、早くも条件によっては殺人すら正当化される――「ヴァジラヤーナ」の思想や終末思想のハルマゲドンを唱え始める。ひとつの転機は、88年、信者が修行中に事故死し、これを隠蔽したこと。翌89年には、事故死を知る信者が脱会しようとしていることを知ると彼を殺した。これが最初の殺人である。この後、信者の脱会に尽力していた坂本弁護士一家3名を殺害した。
次の転機は90年。政界進出を狙って「真理党」を立ち上げ、総選挙に立候補。これに惨敗したことから、国家転覆を目指して武装化を決意。ボツリヌス菌、毒ガス、炭疽菌など「兵器」の生産を次々と試みた。この間にも、脱会を試みた信者などを複数、殺害している一方で、93年にはサリンの製造に成功。翌94年には、訴訟妨害を狙って松本市の裁判官官舎周辺で散布し、8人を殺めた。そして、95年には、迫りくる警察の捜査攪乱を狙って地下鉄にサリンを撒き、13名の命を奪った――これが一連の裁判で認定された事実である。
教祖である麻原はすべてにおいて、指示・命令を行った。直接手を下すことはなかった。死者数は27名。戦後の主要犯罪でも、もちろん最多となる数である。
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