警視庁の花形、捜査一課長 「田宮榮一さん」鑑識眼と懐の深さ(墓碑銘)

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「捜査のプロ」として数々のメディアへの出演でもおなじみの存在だった田宮榮一さん。週刊新潮のコラム「墓碑銘」から、その生涯を振り返る。

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 田宮榮一さんは1982年3月に49歳で警視庁捜査一課長に就任した現場の叩き上げである。翌83年8月までの在任中に、東京を揺るがした98件の事件・事故の捜査の指揮を執った。

 就任前月に大事件が相次いだ。ホテルニュージャパンの火災で33名が亡くなり、その翌日には日航機が逆噴射により羽田沖に墜落、24名の死者を出した。当時、田宮さんは鑑識課長で現場に急行していた。

「田宮さんを師として尊敬し、先輩として慕う者は実に多いのです。頭が切れ、親分肌の人です。警視庁警察学校の教官時代は、私達に基礎をしっかり叩き込み、能力に差はあってもやる気に差があってはならないと諭しました」(捜査一課長を務めた光真章(みつざねあきら)さん)

 32年生まれ。台湾から父親の故郷の山形県に引き揚げた。52年に警視庁入り。上京するなら警察官の仕事が手堅いと考えた。入庁後に選ばれて中央大学法学部に学ぶ。20代後半で捜査一課に異動、警察学校教官などを経て、成城署長、そして鑑識課長を担う。

「物事をとらえる際、一面的な見方を絶対にせず、その姿勢を学びました。叱り方もうまいのです。私の書類に間違いがあった時、お前は俺が二日酔いかどうか試そうとしているのかいと冗談めかして注意されました。説教もしません。お酒を飲みながら和気あいあいとした雰囲気のなかで、そうだなと自然に納得させるのです。捜査は終わっても事件の被害者や遺族にはその後の人生があることを忘れてはいけないと気遣っていました」(警視庁生活安全部長などを歴任した石田唱司さん)

 ホテルニュージャパン火災と日航機墜落では、遺体の解剖に抗議する遺族を説得。棺の手配にも気を配った。

「ホテルの部屋と同じ材料で模型を作ってもらい、燃え方の再現実験をしていました。捜査はそれほど徹底していました」(石田さん)

 鑑識眼があり、物と人の双方を見極める捜査のプロだ。

 捜査一課長の家には各社の敏腕記者が夜回りに来る。

「朝刊の締め切り時刻に間に合うように各社に応対してくれました。禅問答のような時もありましたが、うそはいわない。ある殺人事件で重要参考人が浮上したことをつかみ、田宮さんに確認を取ろうとした。ようやく個別で話をすると、書くなら書け、という返事でした。すると田宮さんは、未明なのに再び捜査本部に戻り、捜査員を招集。朝刊で容疑者浮上が報じられると説明、朝のうちに任意同行を求めよと指示した。記者の取材をつぶさず、潔い人でした」(作家で読売新聞元社会部長の井上安正さん)

 その後は警視庁警察学校長などを経て、89年に警視監の階級で退官した時は警ら部長(現・地域部長)。その後、ヤマト運輸に転じた。

「捜査一課長は、精鋭を束ね、常に矢面に立たされます。田宮さんには厳しさと温かさがありました。周囲の人の性格や特徴をよく見ていました」(捜査一課長を務めた野辺耕造さん)

 戸島国雄さんのように、田宮さんに才能を見込まれ、警視庁きっての鑑識捜査官として活躍を続けた人物も。

 田宮さんはかつて夜回りに訪れていた記者達に請われ、事件のコメンテーターとして登場しはじめたという。

「犯人は男性もしくは女性」などとコメントして、視聴者が絶句することもあった。

「結局、事件の見立てになっていなくても、田宮さんらしかった。偏った解説で予断を与え、捜査に悪影響を及ぼしてはいけないと考えていたのです」(井上さん)

 仕事一途の田宮さんを支えたのは妻の真智子さんだ。

「主人はざっくばらんな人で話が合い、友達同士のようでした」(真智子さん)

 数年前に癌が見つかり体調を崩しがちになる。昨年11月に入院。2月16日に転移性肺癌のため85歳で逝去。

「もし復職できるならと問われると、捜査一課長と即答していました」(光真さん)

週刊新潮 2018年3月15日号掲載

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