政権の下方に深い亀裂が突然口を開けた
1920年にクリミア半島から白軍最後の部隊が撤退・亡命し、内戦が終結した。
しかし 、本当の問題は、ボリシェビキの内部にあった。マーティン・メイリアは、『ソビエトの悲劇』(白須英子訳、草思社、1997年)の中で言う。
内戦末期のボリシェビキ体制の最大の問題は、世界革命の失敗や辺境国再吸収の失敗ではなく、浮上しつつある内部危機だった。ソビエトロシアの砦の中で、党政権の下方に、深い亀裂が突然ぱっくりと口を開けた。農民と兵士と労働者が、同時に離脱し始めたのである。
まず、白軍の脅威がなくなったロシア中央地域で、農民が反乱を起こし始めた。食糧独裁政策の撤回を求め、自分たちが作った組織を通じて問題を処理しようとした。農民蜂起の中で、1920年から1921年にかけて、エスエル(社会革命党)の農民アレクサンドル・アント―ノフが率いるタンボフの反乱が最も深刻なものだった。反乱農民は、最大時には5万人にまでなった。ウラジーミル・レーニンはミハイル・トハチェフスキーが率いる赤軍5万人を派遣し、毒ガスなどの残虐な方法を用いて、これを鎮圧した。
1921年3月には、旧首都ペトログラードに近いクロンシュタット軍港で、水兵が反乱を起こした。彼らは、戦艦「ペトロパブロフスク」で集会を開き、言論・集会の自由、統制の解除、政治犯の釈放、配給の平等化などを要求する決議を採択し、政権に要求した。
軍事的な非常事態が過ぎ去ったいま、彼らは、党から政権を奪い返すべきだという信念に駆り立てられていたのだ。そして、「全ての権力をソビエトヘ」という10月革命のスローガンをレーニンとボリシェビキに突きつけ、「共産党員のいないソビエト」、「コミューン国家」という1917年当時のユートピアに戻ることを求めた。
クロンシュタットの水兵は、つねに革命の最前線にいた。1905年には、黒海艦隊の戦艦「ポチョムキン」が反乱を起こしたのに続いて、クロンシュタットで蜂起が起きた。1917年6月の蜂起でも積極的な役割を果し、巡洋艦「オーロラ」がクロンシュタットからネヴァ河に入り、冬宮を威嚇した。
革命の直接の担い手であった者たちによって引き起こされたという点で、クロンシュタットの反乱は、政権に強いショックを与えたのである。その致命的な危険を熟知していたボリシェビキ政権は、敏速に、無情に、一切の妥協なしに行動した。
トハチェフスキー司令官の指揮で編成された赤軍部隊が派遣された。しかし、反乱軍に同情的な赤軍兵士が多く、攻撃命令を拒否する者が続出した。彼らは銃殺された。赤軍は4000人以上の戦傷者を出した。反乱側の死傷者数は不明だが、2000人以上が死刑判決を受け、6000人以上が投獄され、8000人がフィンランドに脱出したと言われる。
動揺する党員たちを前に、革命軍事会議議長レフ・トロツキーは発表した。「鋼鉄の箒にて一掃した」
戦時共産主義から新経済政策へ転換
この内乱によって、ボリシェビキは、社会主義への早道として戦時共産主義を継続するという幻想から、容赦なく目覚めさせられた。彼らは自分たちの政策が、経済を破壊させたことを、突如として悟った。
1921年の鉱工業生産高は1913年の21%にまで下落し、農産物は例年の38%にまで落ち込んだ。労働者階級はいないも同然になり、1920年にはたった120万人になっていた。1921年の第10回党大会までに、ソビエト体制は崩壊寸前になっていたのである。
ところが、メイリアの表現によれば、「彼らは図々しく居直り、これまでとは正反対の経済政策をとることによって、(中略)権力独裁を守り通そうとした」
党の1921年の危機への対応策は、「二股フォークを突き立てたような形になった」。一方では、生産性を回復させるために農民と市場に並々ならぬ譲歩をした。税を納めた後の農産物を市場で自由に売買することを許可する、という市場原理を導入したのである。この新経済政策は、ニコライ・ブハーリンが提唱したもので、「ネップ」(NEP)と呼ばれた。
他方では、党内部の規律の規制を厳しくし、党内分派を禁止し、中央委員会の諸機関と政治局の路線に対する批判を禁止した。ネップ時代は、レーニンからヨシフ・スターリンへの主導権の移行期となった。
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