豚も食べれば酒も飲む!? 誤解されたイスラム教の「ハラール」解釈
驚きの「イスラム教の論理」を解剖する(4)
イスラム教の食事習慣と言えば、「いろいろと禁じられているものがあって面倒」「特定のものしか食べられない」などと厳しいルールをイメージする人が多いだろう。しかし実際には、こうしたルールはかなりフレキシブルで、厳密な線引きができるような性質のものではない。
西側社会とは根本的に異なるイスラム教のロジックを解き明かした、イスラム思想研究者の飯山陽(あかり)氏による著者『イスラム教の論理』には、イスラムの食事習慣に関する興味深いエピソードが記されている。
酒も飲むし、とんこつラーメンやソーセージも食べる
イスラム教の食べ物に関する基本ルールは、「禁じられているもの(ハラーム)以外は許されている(ハラール)」というもの。禁じられているものは、血、豚、酒である。また病気や事故で死んだ動物の肉、所定の方法で処理されていない動物の肉は、豚以外であっても食べてはいけない。
とは言いながら、「どこまでダメか」を解釈するのはイスラム教徒それぞれに任されている。トルコのように世俗主義の強い国の場合、カフェのテラスで昼間からワインを楽しむ女性の姿も見られる。
飯山氏が以前、そうした女性のひとりにインタビューしたところ、「イスラム教に強制はないの。だから私はスカーフもかぶらないし、お酒も飲むわ」と答えられたという。彼女の論拠は「宗教に強制なし」というコーランの文言(第2章256節)である。この女性のように「宗教に強制なし」を持ち出して飲酒を正当化するイスラム教徒は少なくない。
血、豚も同じである。「神が禁じているのは豚肉であって豚骨ではない」と主張してとんこつラーメンを食べ続ける人もいるし、「ハムやソーセージは豚そのものではない」と自分で解釈して食べ続ける人もいる。
そう聞くと「けっこういい加減だな」と感じる人もいるかも知れないが、イスラム教の論理に従えば、それが正しいか正しくないかを判断するのは神の役割であり、神がどう判断するかは最後の審判の時になるまで分からない、ということになる。
ハラール認証は誤解されている
食事をめぐるイスラムの戒律は、かくもファジーなものである。だから、日本でも数年前から広まり始めた、イスラム教徒が食べてもよいものにハラール・マークをつけるという「風潮」は、飯山氏によると「必ずしも正しくない」のだと言う。
「イスラム教徒は、ハラールと認定されたものだけを食べていいのではなく、『ハラームだけを食べてはならない』のです。しかも、ハラールの認定基準は多種多様で、全く統一されていません。
ハラール認定が広まり始めたばかりの日本ですら、認定機関が100以上あるとされています。日本企業やレストランはそれによってイスラム教徒を顧客として取り込めると考えているのかも知れませんが、そもそもイスラム教徒がみなその認証を求めているわけではないし、信用しているわけでもないのです」
イスラム教徒が多数を占める地域では、基本的に食べ物はすべてハラールであり、そこにいちいちハラール・マークがついているわけではない。逆に、外国人や異教徒向けのレストランで豚肉が使用されている料理にはハラームの表示があることはある。
とはいえ、マレーシアでは国レベルでハラール認証が流通しており、インドネシアでも宗教省管轄のハラール製品保証庁(BPJPH)という機関にハラール認証の権限が与えられている。
ところが、そもそも「ハラール認証という制度自体がイスラム教に反している」と考える人も多いという。
「そう考える人たちは、ハラール認証はユダヤ教徒が食べてもいいものを認証するコーシャ認証の猿真似をした不正行為である、と主張しています。またイスラム教には、キリスト教のバチカンのような教義決定機関がない以上、国であれ組織であれハラールを認証する権利は持たないはずであり、にもかかわらずそれを認証する行為は神の主権の侵害であり、イスラム教徒がその認証をあたかも神を信じるかのように信じる行為は多神教の罪にあたる、と主張しています」
ハラール認証が「そもそも論」の対象となっているうえ、イスラム教徒の食に関する戒律の解釈も千差万別である。豚も食べれば酒も飲む、という人もいれば、「本当に正しいやり方で処理されたものだけを食べたい」とこだわる人もいる。
さらに言えば、厳密な考え方をするイスラム教徒なら、誰がどんな基準で定めたか分からないハラール・マークなど信用しないし、日本のような多神教の支配する国に遊びに来たりもしない。イスラム法では、用もないのに不信仰の地に行くことは禁じられているのだ。
「だから、イスラム教のことなど何も知らない相手にもっともらしい説明をして、うやうやしくハラール認証を与えることと引き替えに多額の費用を請求するのは、イスラム教を濫用したぼったくり商売である、という批判には一定の妥当性があるわけです」