心にするっと入ってくる味わい「左とん平さん」喜劇と人徳(墓碑銘)

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 左とん平さんの逝去には、浜木綿子や赤木春恵、郷ひろみといった元共演者からも哀悼の声が相次いだ。週刊新潮のコラム「墓碑銘」から、故人の生涯を振り返る。

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 左とん平さん(本名・肥田木通弘=ひだき・みちひろ=)の代表作を挙げられなくても、愛嬌のある顔は浮かんでくるだろう。

 1937年、東京生まれ。生家は旅館や寿司店を営んでいた。喜劇に興味を持ち、野坂昭如の紹介で57年に三木鶏郎率いる冗談工房に参加。やがて新宿コマ劇場などの舞台に立つ。若き日の萩本欽一を励ましてもいる。

 テレビドラマ『時間ですよ』で、とぼけた味わいが注目された。73年、バラエティー番組で「ヘイ・ユー!ホワッチャー・ネーム?」と若者に声をかけるギャグが流行語になるほど大受け。『ヘイ・ユウ・ブルース』で人生の悲哀を真面目に熱唱、歌声も人気を呼んだ。よれよれのコート姿で刑事コロンボを思わせる演技も。硬軟自在で重宝されていく。

 賭博で逮捕されたことがある。81年には大きく報じられたが、新聞記事の見出しは「とん平、またカモ」。5年前にもお縄になっているが、とがめるより同情が感じられる。元大臣の息子らがホテルニュージャパンの貴賓室などで賭博を開帳、とん平さんはポーカーで一晩に約50万円負けたという。全面的に事実を認め、3時間ほどで釈放された。

「自宅まで取材に行きました。すると、とん平さんが出て来て、子供や女房には関係ないだろうと怒り出したんです。家族のことを心配していた。追い返されて終わりかなと思ったら、逃げも隠れもしないぞと言い、寒いからうちにあがれよ、と中に入れてくれました」

 と、芸能レポーターの須藤甚一郎さんは思い起こす。

「謝罪も口先ではなく反省がちゃんと伝わってきた。賭け事が好きなら、競馬のような公営ギャンブルをしてはと聞くと、そういうのと俺たちは違うんだ、と力を込めて言う。もっと緊迫感が必要なんだと。正直な人だなと思いましたよ」

 負けてもストレス解消になると語っていたが、お金以外に失うものもある。当時、帝国劇場の『華麗なる遺産』で森繁久彌と共演中。謹慎で舞台に穴をあけた。

「復帰の機会を用意してくれたのも森繁さん。俳優仲間らが避けるどころか、叱咤激励、なぐさめのために自宅を訪ねた」(須藤さん)

 芸を見つめ直す契機になったのかもしれない。83年にはカンヌ映画祭の最高賞を受賞した今村昌平監督の『楢山節考』で、緒形拳演じる主人公の弟役を務めた。村人に嫌われる難しい役だ。

 さらに同年には降旗康男監督の『居酒屋兆治』で、旧家の牧場主を好演。高倉健演じる居酒屋主人は恋人(大原麗子)に、この牧場主との縁談が持ち上がると、幸せを願って身を引く。その恋のすれ違いが物語を展開させていくので、とん平さんの役柄は重要である。

 降旗監督は振り返る。

「役に合う人を探して、とん平さんは期待通りどころかはるかに良かった。一緒に仕事ができて幸せだったと思い出します」

 90年代に入ると、『ヘイ・ユウ・ブルース』が20年を経て再びヒットしたり、理想の父親として表彰されたり、本人も予期せぬ展開に。

 原点の喜劇を大切にした。

「弱そうで芯がある、間抜けに見えてしたたかさもある様子が伝わってくる演技でした。細かい所まで配慮がゆき届いて完成度が高いのに、脇に徹して、出過ぎた演技はしませんでしたね」(演劇評論家の岩波剛さん)

 妻の仁美さんはとん平さんの下積み時代から支えてきた。長男は難関大学を卒業、出版界で働いた。

 昨年6月、急性心筋梗塞のため手術し、出演予定の舞台を休演。そのひとつは、浜木綿子と長年共演してきた喜劇『売らいでか!』だ。

 快方に向かっていたが、誤嚥性肺炎になる。容体が急変し、2月24日に心不全のため80歳で逝去。

 晩年に出演した葬儀会社のCMでは、何でも相談してみたらと、とん平さんが語りかけてくる。そうかもなと印象に残る。温かい人だ。

週刊新潮 2018年3月8日号掲載

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