脳梗塞から「アイドル」気分に? 高次脳機能障害者の知られざる世界
高次脳機能障害者は世界をどう見ているか
病院で体の不調を訴える際に困った、という経験を持つ人は少なくないだろう。
たとえば「どう痛いのか」を他人に伝えるのは事のほか難しい。自分にとっての「しくしく」が医師にとってのそれと同じかはわからないからだ。
通常の痛みなどでもそうなのだから、脳に障害を抱えた場合、いま世界がどう見えているのか、何に困っているのかを医者はもちろん、身内に伝えることも困難だ。
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41歳で脳梗塞を発症し、高次脳機能障害を抱えることになった鈴木大介氏は、新著『脳は回復する』で、自身の障害・症状をルポライターとしてのノウハウを生かし、生々しく、かつユーモラスに描写している(以下、同書より抜粋・引用)。
鈴木氏を襲った障害・症状は以下のようなものだ。
「井上陽水」「架空アイドル現象」「夜泣き屋だいちゃん」「口パックン」「イラたんさん」「初恋玉」
何だかふざけているような感じを持たれるかもしれないが、これは鈴木氏の訴えをもとに、看病、介護をしてきた奥様がネーミングしたもの。しかし、意外なことにそれぞれの症状による苦しさは、変なネーミングによって少しだけ和らぎ、立ち向かいやすくなった面もあるのだという。
他人にはうかがい知ることが困難な高次脳機能障害者の内面のうち、今回は「井上陽水」と「架空アイドル現象」をご紹介してみよう。
井上陽水の感じ
まず「井上陽水」。病後、鈴木氏は「僕が僕でない感じ」「羊水に包まれた胎児のように、何か見えない膜を介して現実世界に接しているようで現実感がない」という違和感を訴え続けていた。この「羊水」をもじってのネーミング、「井上陽水」である。当時の感覚を鈴木氏はこう描写する。
「この症状は、あらゆる感覚・情報がソフトで鋭敏さを欠いて感じられるもので、当時のメモを見ると、『全身をサランラップでグルグル巻きにされたような』とも書いている。
目で見る景色はくっきりしているし、視力に問題はない。確かに脳梗塞発症から10日ぐらいのあいだは、細かい文字などは必死にならないと二重に見えたりしたけど(一時的な集中力の激減)、そんな時期はとうに過ぎて、きちんと遠くの物も近くの物も見える。にもかかわらず、なにか自分は現実世界ではないどこかにいて、映画としてその視野を観ているような、非現実感がある。
聞こえてくる音についてもしかりで、音はこもっていないけど、どこか別の世界で録音された音を聞いているように非現実的。
顔で受ける風や匂いについてもしかり。皮膚感覚はしっかりしていて麻痺などないのに、冷水で顔を洗っても、頭から氷水をぶっかけても、血がにじむまで頭を掻きむしっても、他人の身体を刺激しているようで全然しゃっきりしない」
この症状を医師らに訴えても、みんな首を傾げるばかりで、症状が何なのか、どうすればいいのかといったアドバイスは貰えなかった。ところが、当事者の手記には同様の感覚が度々登場する。また、鈴木氏がかつて取材してきた、社会に適合できない人たちに、この「井上陽水」体験について聞いてみると、「私もおぼえがある」という報告が続々と寄せられたのだ。彼らが精神科で貰った診断名は「離人症(りじんしょう)」「解離性障害(かいりせいしょうがい)」だったという。
人ごみを歩けない
もう一つ「架空アイドル現象」について、鈴木氏はこう解説する。
「このアホらしい症状名は、我が妻が考えた。脳梗塞後に『人ごみが歩けなくなってしまった』僕の症状をさして、命名されたものである。病後の僕は人ごみを歩きたくないとか歩きづらいではなく、実際に歩けなくなってしまうことがたびたびあった。
症状が起きるのは、スーパーマーケットやショッピングモールの通路、駅構内などの多くの人が行き交う場所」
こういう場所で他人が全員自分に向かってくるように感じてしまい、身体を適切に動かせなくなってしまう。たまらず立ち止まると周囲の人の速度が上がり、自分だけがスローモーションの世界に叩き込まれたような感じになる。このように雑踏を歩けないつらさに対して、夫人は「架空アイドル現象」と名付けたのだ。
「妻よその言葉、相変わらず意味がわからんよ」
「だって、他人がみんな自分めがけて寄ってくるんでしょ? キャーって言いながら。寄ってくる人に囲まれて、なんか自意識過剰で自分がアイドルだって妄想してる奴みたいじゃん。そんなん架空アイドル現象でいいよ」
もちろん当人にとってはそんなのんきなものではなく、とてつもなくつらい経験だったのだが、鈴木氏はむしろこうしたネーミングに精神的に救われたようである。
幸い、障害が比較的軽度であったことに加えて、さまざまな独自のリハビリ、さらに奥様の献身の甲斐もあって、その経緯を同書にまとめられるほどに鈴木氏は回復。とりあえず「井上陽水」「架空アイドル現象」からは解放されたそうである。