「美智子皇后」も婚姻辞退寸前、「明治天皇」が慰謝料7億円 皇室破談秘史

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 歴史は繰り返すと言うけれど、意外や皇族の結婚をめぐる騒動は珍しいことではない。平民出身のために婚約解消を取り沙汰された美智子妃(当時)は危機を脱せられたが、いわれなき理由でやむなく身を引かされた姫君もいる。菊のカーテンの裏側で繰り広げられた宮中破談劇の数々。

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 綸言(りんげん)汗の如し――。君主の言葉は容易にひっくり返せないという意味だが、それがあっさり撤回されたのは、明治天皇の皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)の婚約だった。

 明治26(1893)年、明治天皇は親王の結婚相手として伏見宮禎子(さちこ)女王を「内定」する。当時、禎子女王は7歳。少女ながら気品にあふれ、家柄も申し分なかった。ところが、6年後に突然取り消されてしまう。

 皇室の歴史に詳しい近現代史研究者の浅見雅男氏によると、

「禎子女王に肺病の疑いがあると何人かの医師が言い出したのです。医学的に確実な証拠はなかったのですが、何しろ皇太子(嘉仁親王)が幼少の頃から病弱だった。わずかでも女性の健康に不安があれば、妃候補から外さなければならない。結局、この疑いが原因となって婚約が解消されたのです」

 禎子女王に代わって皇太子妃に選ばれたのは九条家の娘・節子(さだこ)だった。破談の翌年に成婚式が執り行われたが、さすがに明治天皇は、禎子女王のことを気の毒に思ったのだろう。

「成婚式のあと、明治天皇は禎子女王に5万円の公債証書を与えています。やむを得ない事情があったとはいえ破格の金額でした」(同)

 いわば慰謝料である。当時の5万円は今の6億〜7億円の価値がある。

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