みのもんた「納骨する気になるまで6年かかった」―― 妻に先立たれた男は何を想うのか

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 6年前、苦楽を共にした愛妻を亡くした稀代の人気キャスター・みのもんたさん。死にゆく妻を看取った後、彼は何を想ってきたのか――。(以下「新潮45」3月号 【特別企画】妻に先立たれた男の話「納骨する気になるまで6年かかった」(みのもんた著)より転載)

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 今年の5月22日が女房の七回忌なので、それを機に納骨しようと思っています。でも、まぁ、6年かかったね、納骨するまでに。これまでお骨は鎌倉の自宅のキッチンに置いていました。キッチンはわが家で最も眺めのいい場所にあって、窓越しに江の島、葉山、逗子と相模湾が一望できる。しかも、彼女のお気に入りだったショールで骨壺を覆う袋を仕立てたから、よけいに手放しづらくてね。

 彼女が亡くなった直後は、そうだなぁ……。さみしい、わびしい、困った、今日からどうやって飯を食えばいいんだろう、と色んな感情がどっと押し寄せてきましたよ。やっぱり男が先に逝くほうがいいんじゃないかな。何しろ、ご飯の炊き方も分からないし、ワイシャツのボタンが取れても繕うことすら出来ない。参っちゃうよ、本当に。

 特に、わが家は女房中心で回っていたからね。家事育児はもちろん、僕の健康管理や身の回りの世話、撮影でのスタイリングまで一手に担っていた。いま振り返ると、女房は雪かきのラッセル車のような存在で、いつでも僕のために進むべき道を作ってくれた。彼女に引っ張られ、叱咤激励されながら生きてきたわけです。僕は酒飲みだから銀座や六本木で遊んだ後、帰宅してから妻とも飲んでいた。自宅に着く頃にはとっくに日付が変わっていたけど、1、2時間は女房と過ごした。彼女は嫌な顔ひとつせずに愚痴にも付き合ってくれた。それから床に就くわけですが、3人の子供が幼かった頃は、朝5時半に起きてお弁当や朝食の準備をしていましたよ。そういう女房なんです。

 女房とは立教大学の放送研究会で出会ったから、40年以上を一緒に過ごしてきたことになる。付き合い始めたのは僕が19歳の時なので、彼女はまだ18歳か。でも、当時から姉さん女房みたいな感じだったな。大学を卒業後、僕は文化放送に入社して、「セイ!ヤング」という深夜放送で丁々発止やっていた。でも、そのうちに自分の喋りの限界や、会社の方針もあって、営業や販売促進の部署をたらい回しにされるようになったんです。

 そんな状況が我慢できず、結局は35歳で退社を決めた。とはいえ、当時は逗子に建売住宅を買ったばかりでローンもかなり残っていた。まだ長女も幼かった上に、長男が生まれるか生まれないかという時期でした。さすがに口論になるだろうと思っていたのに、退社について切り出したら、女房は拍子抜けするほど淡々とした口調で「いいんじゃない? パパがそう決めたのなら」という。もし、あの時に女房と揉めていたら、僕の精神は絶対にグチャグチャになっていたよね。でも、そうじゃなかった。彼女は「とにかく頑張ってみなさい」と背中を押してくれた。それで、「よーし!」となったわけです。

仕立て直されていた喪服

 文化放送を退社した後は、親父の起こした小さな水道メーター会社の社員として一から勉強し直しました。メーターの組み立てから通水、塗装、納品まで全部やって、営業で日本中を駆け回った。親父と僕と女房が役員だったから、ジイちゃん、父ちゃん、母ちゃんの典型的な「三ちゃん企業」。女房はある建設会社のお嬢様なんですが、本当によくついてきてくれたと思う。あの当時は全く経済的に余裕がなかったのに、自宅の冷蔵庫にはなぜかいつも食べ物が詰まっていた。僕に内緒で、彼女が実家から貰ってきたんだろう。そういう大変な時期でも、女房はつらさを一切感じさせなかった。肝っ玉が据わっていたね。だから、僕は大船に乗った気持ちでいられたんだ。この人がいれば大丈夫だ、とね。

 そんな生活を10年くらい続けて、僕の転機となったのは「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」のナレーション。あれがバカ当たりしたお陰で、お茶の間に「みのもんた」の名前が浸透していった。そこから一気に、テレビ局からお声が掛かるようになったんです。

 仕事がピークを迎えたのは、帯番組の「午後は○○おもいッきりテレビ」と「朝ズバッ!」、それに土曜の朝の「サタデーずばッと」を掛け持ちしていた頃だね。テレビに出演する時は貸衣装を使ってもいいんですが、汚さないようにファンデーションや香水を使わないでほしいといった制約がある。すると、女房は「パパ、それなら貸衣装はやめよう。私が選びます」。それから女房は必死に勉強して、僕の専属スタイリストになった。だから、僕の衣装は女房が飛び回って買い付けた服ばかりなんです。これだけギャラを頂いているんだから身の丈に合ったものを自腹で買いましょう、と。それは僕も同じ意見だった。

 ただ、さっきの3番組だけで1週間に11着もコーディネートする必要があったんだ。しかも、女房の方針で、スーツはともかくネクタイとシャツは同じものを二度と着けない。その当時に女房が購入したネクタイは1万本に上ると思います。何しろ、未だにストックがあって、新しく買う必要がないんだから。彼女がスタイリストという仕事に心血を注いでいたのは間違いないですよ。僕が番組で着たジャケット、シャツ、ネクタイの組み合わせをひとつひとつメモしたスクラップブックが、いまも何十冊と積み上げられています。決して衣装がダブらないように確認していたんだね。

 女房が末期がんであることが発覚したのは亡くなる10カ月ほど前のこと。闘病中もスタイリストとしての仕事をこなしてくれました。彼女が亡くなってから自宅の衣裳部屋を覗くと、1カ月以上先までの衣装がズラッと吊るしてあった。それも、ネクタイまで含めて完璧にコーディネートしてあるんだ。短期で退院した際にすべて見繕っていたんだろう。

 もうひとつ忘れられないことがある。僕は、葬儀のためにイギリスから一時帰国した長女に、女房が大事にしていた着物の喪服を着せてあげたいと思ったんです。それで、着付けの先生に、娘の体型に合わせて仕立て直してもらえないかと頼んだ。そうしたら、多少サイズが違っても着付けはできるかもしれないと先生が仰るので、ひとまず娘に着させてみたんです。すると、先生が目を丸くした。「あら? この着物、お嬢さんの丈に合わせてきちんと直してありますよ」って。これは堪らなかった。苦しい闘病生活を送っていたはずなのに、自分の葬儀のために娘の喪服の準備まで進めていたわけだから。その時は人目も憚らず泣いてしまった。

 その後、亡くなってからしばらくは女房の持ち物には手をつけられなかったね。ただ、葬儀から半年が過ぎた頃、そろそろ整理しないといけないと思って彼女の洋服ダンスを開けたんです。すると、洋服が綺麗にまとめられていて、ひとつひとつに小さな付箋がついている。付箋には「○○さんへ」とペンで書かれていた。そう、自分の洋服を誰に渡してほしいかまで考えていた。

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