【追悼】西部邁氏 舌鋒鋭く“ポピュリズム批判”を行った名コラムを再掲載

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政治の素人賭博師

 実は、レフト(左翼)というのは、社会主義への同調のことのみをさすのではない。モダンというのも最近の時代ということなんかではない。形と量の明示されたもののみを重んじるという意味での合理主義にとらわれる純粋型のモダニズム、それが左翼的ということなのだ。だから、小泉改革の大失敗を直視しない自民党も、その失敗にたいして社会福祉のためのマニフェスト(形と量の定まった政策)をもって対抗しようとした民主党も、ともに左翼に属している。この左翼の軛(くびき)を断つのでないかぎり、民主主義を支える世論なんかは、その語の本来の意味のままに、「根拠の定かならぬ思いつきの意見の寄せ集め」にすぎなくなる。

 世論(せろん)が人気の流行に沿うのにたいし、輿論(よろん)は「社会の土台にいる庶民たちの根本感情に根差す常識」である。「現代は三つのMによって動かされている」とニーチェはいった。つまり「モメント(瞬間)とモーデ(流行)とマイヌング(世論)」の波頭の上でサーフィンをやっている、それが橋下氏における常識の喪失ということである。

 氏のいう維新はその語の原義から遠く離れている。孔子のいった維新とは「過去の英知を現在の新しい状況に活かす」ということであり、温故知新と同義なのだ。橋下氏の御意見には過去の英知を参照するところがまったくない。リストレーションは復古としての維新である、とみる歴史的な洞察がこのアンチャン、失礼、この政治の素人賭博師にはみじんもない。

 しかし、維新を「伝統を保守するための現状の改革」とみる保守思想は橋下氏においてのみ欠落しているのではない。小泉改革に八割の支持を寄せ、次に小泉批判をたくましくした民主党のマニフェスト政治に同じく八割の賛同を示した世論のギッタンバッコンが、その長引く国民規模での脳震盪のなかで、保守思想の最後の一滴を蒸発させてしまった。一連の平成改革を近代主義の断末魔の叫びと聞かない者は、こぞって橋下氏の足下にひれ伏すがよい。維新八策によって日本国家は最終的に解体させられるであろうが、元々、戦後日本人には自殺狂の気味がある。日本の歴史の深みに潜在する国民の揺るがぬ感情、それを忘れる者は精神的にすでに死んでいる。橋下徹、彼は戦後日本のダンス・マカーブル(死の舞踏)においてみごとな骸骨面を被って派手に踊ってくれることであろう。

週刊新潮WEB取材班

2018年1月27日掲載

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