【追悼】西部邁氏 舌鋒鋭く“ポピュリズム批判”を行った名コラムを再掲載
「民の声は神の声」
「政治家と弁護士は嘘をついてなんぼのもん」とみずから宣う橋下徹なる人物は、ヒットラーもそうであったように、マスの代表者となりうる逸材である。マスというのは(日本では大衆と記されているが)要するに大量人たちのことで、社会の大量現象としての流行の平均値に身の丈を合わせるという意味では、流行人たちであり平均人たちである。現代日本が高度に発達した大衆社会となりおおせてすでに久しい。したがって、橋下氏の率いる「日本維新の会」が総選挙で大躍進し、橋下氏がこの大衆の最高指導者となろうとも、驚くには当たらない。ヴォクス・ポプリ(民の声)はヴォクス・デイ(神の声)である、と囃し立てるのが民主主義である。古代ローマで「パンとサーカス」を求めたプレブス(平民)であれ、近代最初の大衆社会であるアメリカのピープル(人民)であれ、橋下氏に類した奇矯の人物を指導者の座に押し上げてきた。それが歴史の通り相場なのだ。
今から十一年前、こうした相場の動きの一環として、我が国は小泉純一郎なるデマゴーグを首相の座に就けた。「デマ」(流行の嘘話)を旨とする「デマ」ゴギー(民衆煽動)によって動かされるのが「デモ」クラシー(民衆政治)である。その認識をしっかり持っていれば、第二の小泉がTVのオチャラケ番組から国会の大臣席に場所を移そうとも、むしろ当然の成り行きといってよい。そして、オルテガという哲学者が八十年以上も前に見抜いたように、「ある文明がデマゴーグの手に落ち込むほどの段階に達したら、その文明を救済することは、事実上、非常に困難である」と理解するほかないのである。
橋下氏の「維新八策」はいわゆる小泉改革と酷似している。「首相公選・道州制」、「衆院定数削減」、「TPP参加」、「年金積立方式」の四策はみなアメリカニズムの色調に彩られている。「公務員の強い身分保障の廃止」と「教職員労組活動の総点検」の二策も「小さな政府」論の流れに棹差している。「防衛力整備」と「憲法第九条改正か否かの国民投票」の二葉は、それら自体としては強い国家をめざすものとして肯定できはする。しかし、日米安保や日本国憲法そのものが、総体として日本の対米属国化を促していることについて、小泉氏と同じく、橋下氏も無知である。
ここでアメリカニズムというのは純粋型のモダニズム(近代主義)のことで、それは、「形式化と数量化」の整ったものにしか関心を寄せない。モデル(模型)をモード(流行)に乗せようとする思考と行動、それがモダンということなのだ。
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