養老孟司×塩野七生 「言い残したことがあって」「いつ死んでもいいや」
「よそ者」人生
塩野 「ギリシア人の物語」を書き終えてもう2カ月は経つのに、私の頭の中にまだギリシアの歴史が残っていて、アレクサンダーについては細かいことまで覚えているのに、それ以外のことは全部忘れちゃうんです。スーツケースのカギの番号もクレジットカードの暗証番号も。だからメモして財布の中に入れているんです。自分の仕事に関係ないことは全部忘れちゃう。これも老化現象なのかしら。
養老 ひたすら一人で仕事をしている時に使うのは、外部からの入力が一切ない「非社会脳」。一方で、日常生活は「社会脳」なんです。脳を調べるとわかるんですが、2つの行動はまったく別の部分を使っているんですよ。
塩野 17年ももう終わりだけど、私がとても満足したのはカズオ・イシグロがノーベル文学賞を受賞したこと。あの人はイギリスでは「よそ者」じゃないですか。
養老 僕も日本で「よそ者」だけどね(笑)。
塩野 私たちは2人とも「よそ者」です。昔、養老さんに「日本に帰ってくることになったら鎌倉に来たら? その時は僕が行きつけの魚屋を紹介してあげる」と言われたでしょ。あの言葉、実はけっこう心に響きました。あの時ふと、「もしかしたらよそ者でいられる人生を終わりにできるのかな」と思ったの。
養老 そんなこと言いましたっけ(笑)。
塩野 でも、「よそ者」性がないと、常識や当たり前のことに対して「何で?」という疑問を持てなくなるという面もありますよね。例えばなぜオリンピックが生まれたのかという疑問に対して、多くのヨーロッパ人の間では「戦争ばかりしているのは不毛だから、休戦のためのイベントでもしようということで始まった」というのが常識になっています。でも私は「よそ者」だから「なぜ」と興味を持って調べていくわけです。だからもしあの時に養老さんの提言を受け入れて鎌倉に移住していたら「ギリシア人の物語」は書けなかったかもしれません。
養老 作家というのは、ある程度、「よそ者」性が必要なんです。
塩野 そうそう。
養老 作家や学者には満州引き揚げ者が多いでしょう。安部公房、赤塚不二夫、山崎正和などがそう。日本の世間と感覚がズレているからこそ、作品や研究を生み出せたのだと思います。僕だって世間的には異邦人だから、いつでも世間というものが気になりますよ。
塩野 私も日本にいた頃から「はぐれ者」でした。私の通っていた日比谷高校では、多くが東大に行くのが普通だったのに学習院大に行って。
養老 僕は終戦で相当へそ曲がりになりました。たぶん僕らより上の世代は、軍国少年から戦後民主主義に考え方を変えたから、その変えた方で頑張りぬいてしまうんですよね。あそこで変えたんだからもう考えを変えられるかという頑固さがあります。その点、僕らは軍国少年である時間がなかったからそうはいかなかった。
塩野 私が通っていた頃の学習院には女性の求人の案内が来ませんでした。どうせみんな結婚すると思われていたんです。私の母は、娘が学習院に行って「やれやれ」と胸をなで下ろしたはずです。ところが英文科にでも進んでおけばいいのに、哲学科に進んだ上に、卒業してヨーロッパに行ったわけだから普通の嫁入りは絶望的ですよ。結局、ヨーロッパの男と結婚したわけですし……。
養老 僕が中高で通った栄光学園はイエズス会が作った学校ですから、修道院がついていました。当時修道院には日本人はほとんどおらず、本当にいろんな外国の人がいましたよ。キリスト教教育も受けました。神様が実在するとか、全知全能だということも教わりました。助手時代には、東大紛争で閉鎖されて追い出されましたね。昔から僕は日本の世間とはズレているように感じますし、今でもそれは変わりません。それがないとものを書こうと思わないでしょう。だって書く必要がないんだから。
塩野 この点でも私たちは似た者同士なのね。
『遺言。』『新しき力』刊行記念 養老孟司×塩野七生 私たちの「物書き人生最終章」(下)へつづく
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