実の息子からも恨み節、写真集は“返本率9割” 「野村沙知代さん」猛女伝説
息子からも恨み節
72年から75年まで南海に在籍した江本孟紀氏も、
「僕がいた当時も沙知代さんは球場に顔を出して、選手の髪型や服装を注意することはありましたが、僕が出てから、球団や親会社と揉めはじめたと聞いています。江夏豊らが入団した76年ごろからですかね」
と証言。ふたたび吉見氏の話にもどると、
「野村監督の後援者だった比叡山の阿闍梨も、沙知代さんを紹介されて“監督を続けるために別れなさい”と忠告し、野村さんを崇拝していた川勝傳(でん)オーナーも、どうすれば別れさせられるか、 と頭を抱えていました。結局、どうにもできなくなって匙を投げ、スポニチの記者だった私はそれを聞いて“野村監督解任”のスクープを打ったんです」
シーズン2試合を残して解任され、その後も、
「南海の球場跡地にある記念館には、ノムさんのパネルはおろか、野村の“の”の字もないんです」
と江本氏。2人が覚悟のうえで純愛を貫いた結果だと言えば聞こえがいい。しかし、このダブル不倫、サッチーの次男のケニー野村氏は、著書『グッバイ・マミー』(新潮社刊)にこんなふうに記していた。
〈それにしても、アメリカ国籍の夫と2人の息子がいて、その一方で違う男と同棲しながら独身と称してカントクとも付きあっていたのだから、凄いというより呆れ果てる〉
ちなみに、前夫のアルビン・ジョージ・エンゲル氏は座間キャンプで記録映画を撮っていた米軍属で、とある“サロン”でサッチーと知り合ったという。サッチー名義で貿易会社を営んでいたが、 離婚後に帰国し、3年後に自殺している。以前、ケニー氏は本誌(「週刊新潮」)に、
「最終的な離婚の条件は、その貿易会社のカネを親父に返すこと」
などだったが、
「しかし、オフクロは離婚した時の約束を何一つ守りませんでした」
と恨み節を語っていた。
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