“制服”“校則”なしで64年連続東大合格者トップテン! 日本一自由な学校「麻布中高」の学園紛争
前川喜平氏もいた
「10月3日、竹槍を持った武装突撃隊が文化祭に突入してきました」
いわゆる「セクト」と関係をもつ一部の過激な生徒たちだった。このころ麻布の校内でも、中核派の反戦高協と革マル派の反戦高連の「内ゲバ」が繰り広げられたとA氏は証言する。
「実際はただのリンチでした。屋上で反戦高協の連中が反戦高連の2人をよってたかって。私は止めに入りました。そうしたら反戦高連の2人が言うんです。『Aくん、もうかまわないでくれ。キミたちまでやられてしまうから』って」
一部の過激な生徒たちが武装して文化祭に乗り込んでくるという情報は、A氏にも伝わっていた。そこでA氏は信頼のおける友人を集め、「彼らに加担してはならない」と説得した。
「一般の生徒は彼らを遠巻きに見るだけでしたが、山内校長代行が警官隊を校内に入れると、一般生徒も激高してしまった。仕方ないから私たちも出て行って警官隊を追い返しました」
10月5日、体育館で生徒約500人と教員3人による討論会が開かれた。生徒たちは山内校長代行の出席を求めたが回答はなく、昼過ぎには半数の生徒が中庭で座り込みを始めた。すると16時30分ごろ、学校は機動隊に包囲された。警察車両のスピーカーから「5時までに解散して校外に退去せよ。退去しなければ警察官が実力で排除する」との宣言があった。声の主は山内代行本人であった。
17時20分すぎ、機動隊が中庭に進行。抵抗せず沈黙して迎えるようにと、約20人の教員が生徒たちに訴えた。そして翻り、機動隊と生徒たちの間に立った。
「根岸先生や増島先生がスクラムを組んで私たちを守ろうとしてくれて。今でも何か、涙が出てくる」
A氏は当時の様子を思い出し、声を詰まらせる。
「みな機動隊にごぼう抜きされていくわけです。でも機動隊の人たちも『もう大丈夫だよ』『よくやった』なんて声をかけてくれるんです。彼らだって、『なんでこんな子供たちに実力行使しなくちゃいけないんだ』と思ったでしょうからね」
そんな中に、前文部科学省事務次官・前川喜平氏がいたはずだ。このとき前川氏は麻布高校2年。多感な時期の原風景として、当時の様子が脳裏に焼き付いていても不思議ではない。
ある卒業生が言う。
「前川喜平さんが出てきたとき、麻布っぽいなと直感してネットで調べたら、当たりだった。ある程度出世しているのに、ここぞというときには空気を読まずに信念を貫くところは麻布生っぽい。それでいて、出会い系の噂が出るなどの人間味もある」
「勝ったぞー!」
10月7日から「無期限のロックアウト」となった。
しかし、このままでは高3が単位不足で卒業できない。学校側は専門学校の教室を借りて授業を受けさせようとしたが、生徒側は「学校を開けるのが筋だ」と反発。「学外授業に反対。ロックアウトを解除せよ。高3の学年集会に校長代行が出席せよ」という要求を決議した。
11月12日、市ヶ谷の私学会館で高3の学年集会が開催され、山内校長代行も出席することになった。A氏をはじめ各クラスの代表が取り仕切ることになったが、議論はかみ合わない。
「全校集会開催にこぎつけたいが、このまま話し合いを続けても時間切れになるだけ。ここで私はものすごく嫌なことをしました」
まもなく時間切れになるとみるや、A氏たち議長団は解散宣言をした。すると納得できない連中が壇上に来て山内代行をつるし上げ、翌日の全校集会開催の約束に署名させてしまった。
「私たちはその展開を予想していた。彼らのことをある場面では否定し、ある場面では利用したわけです」
11月13日、ロックアウトが解除され、全校集会1日目。大きなトラブルはなくその日は終わった。
「2日目はセクトの生徒が現れ、アジテーション演説をした。しらける生徒もいましたが、彼が学校を出たあと有栖川公園で逮捕されたという情報が伝わってきました。それで生徒たちは激高してしまって、収拾不可能となりました」
立場上集会の正常運営の責任を担うA氏ら議長団は、スクラムを組んで山内校長代行を守ろうとしたが、激しいもみ合いになった。興奮した生徒たちは山内代行の眼鏡を割り、ネクタイをもみくちゃにした。抵抗を続けた山内代行だったが、しばらく目を閉じ、マイクをとると、「私は今日限りやめます」と言った。
革命の瞬間だった。「勝ったぞー!」。グラウンド全体に歓声が響き渡った。
葛藤から抜け出せない
しかしこの瞬間、A氏は、とてつもない無力感に襲われていたという。
「最後は暴力でことがなるのかなって。結局は暴力を利用したんですね、自分たちの手は汚さずに。特に後輩から『Aさんは汚い』と言われたことは深い傷として残りました。いっしょに闘った同志の名前も今は1人しか思い出せません。忘れようとしているんだと思います。自分の中で無意識的に。麻布の学校史も今回初めて読んでみました。抵抗があって読む気になれなかったんです」
50年前の革命がなければ、今ごろ麻布は普通の進学校になっていただろう。だが、渦中にいた人物は、いまも当時の葛藤から抜け出せずにいた。その苦しみを知らず、私はA氏のことを勝手に「英雄」に祭り上げていたのだ。不覚であった。
「学園紛争に深く関わった連中は、やっぱり大人の汚さを感じたんですよ。理事会は無責任。無責任なものが力をもっている」
A氏は浪人して大学に進んだ。
「麻布の教員って研究者か研究者崩れだから、授業が面白かった。職員室には知的なけだるさが漂っていて、あれが良くて私も教員になりましたが、間違いでした。あんな雰囲気のところなかなかないんです」
山内校長代行がもみくちゃにされた全校集会の場にいたはずの前川前事務次官。彼の言動についてはどんな印象をもっているか。
「例の天下りの件では彼だってすねに傷があるわけで、そこを叩かれたくなければ大人しくしていたほうがいい。それでもあえてああいう発言をするのは、かなり信念に基づいているのではないかと思います。立つときは立たねばならないんでしょう、人間はね」
(下)へつづく
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