今ある姿を受け止め楽しもう「故・篠沢秀夫さん」の笑顔と気概(墓碑銘)

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 2017年も多くの文化人がメディアに登場したが、10月に亡くなった篠沢秀夫さんは、いわゆる「テレビ文化人」の先駆け的存在だった。週刊新潮のコラム「墓碑銘」から、故人の生涯を振り返る。

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 フランス文学者で学習院大学名誉教授の篠沢秀夫さんは、TBS系の「クイズダービー」の解答者として親しまれた。間違いや珍答を連発して司会の大橋巨泉さんにからかわれても、「愉快、愉快」と満面の笑みだった。

 篠沢さんは1977年から88年まで出演。大学教授だって知らないことはたくさんある、失敗しても陽気に笑っていればいいんだよ、と伝えたい、と引き受けた。篠沢さんの出演により視聴率は30%ほどに急上昇した。

 妻の礼子さんは振り返る。

「子供達と一緒に楽しみに番組を見ていました。結婚した時、教育ママになるなと言われました。子供が自分の好きなことを頑張ってやれるように見守るだけでいい、才能をつぶすなよ、と。勉強は強制してさせるものではないという考えでした」

 33年、東京・銀座生まれ。敗戦後、一変して進駐軍に媚びる風潮に、物量だけでなく精神でも負けたと痛感した。相手を知るにはまず言葉だと、旧制都立一中に入ると英語に熱中。英語にはフランス語が大きな影響を与えていると理解すると、フランス語に没頭した。

 旧制中学からの友人で、映画監督の佐藤純彌さんは思い起こす。

「自分自身の論理や価値観を大切にしていました。当時から権威や肩書に魅力を感じていなかったですね。人の気持ちを読むのがうまくて気を遣うのですが、相手に媚びることはしない」

 学習院大学では演劇にも興味を持ち、児玉清さんと親しくなり、生涯の友に。東京大学の大学院でフランス文学の造詣をさらに深めた。

 TBSでドラマの演出家として活躍した鴨下信一さんとは東京大学で出会った。

「インテリなのに人懐っこいのです。学者より役者になりたかったと話していたことがありました。学問を専門としながら余裕を持っている真の文化人でした」

 フランスへの留学生に選ばれ、帰国後は学習院大学の非常勤講師に。7歳年下の礼子さんは仏文科を卒業後、研究室の副手を務める。

「はやりのイタリア料理のお店に連れて行ってくれたかと思えば、今日はお金がないからラーメンね、と言う。飾らずおおらかで疲れない人でした」(礼子さん)

 65年に結婚、2男1女を授かっている。

「子煩悩でも休みに一緒に遊びに出かけたりはしません。研究にはきりがなくて、たとえ95歳まで生きたとしてもやりきれないんだと申しておりました」(礼子さん)

 使われている単語、表現から作品を分析する文体学や、ロラン・バルトなどの翻訳で知られた。東京大学名誉教授でフランス文学者の菅野昭正さんは言う。

「話し好きですが、学習院在学中から勉強熱心で、その後の研究の質も高かった」

「クイズダービー」で一躍、時の人になっても自転車通勤のまま。大学の講義も手を抜かない。幸せな顔を見せたいと、番組収録がある日は、朝から研究や仕事をしない徹底ぶりである。

 実はかつてフランス留学中に最初の妻を交通事故で亡くし、自身も瀕死の重傷を負っている。礼子さんは前妻の1男を喜んで育てたが、彼は14歳で高波にさらわれた。75年、テレビ出演を快諾する2年前だ。

「笑顔の内側にはとてつもない悲しみをかかえていた。でも現実を受け入れ、前進を続けた人です」(鴨下さん)

 皇室についての意見を求められたり活動は広がった。

 2009年、筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断。全身の筋肉が徐々に動かなくなる難病で有効な治療法はない。脳に支障はなく思考は明晰だ。発病から5年後には右手以外はほとんど動かせず、寝たきりになっても、特別な装置を使い執筆を続けた。

 10月26日、84歳で旅立つ。

「主人は運命と受けとめて、病気を恨んだり怒ったりしませんでした。最期は安らかに眠るようでした。私や子供達が呼ぶと目を動かしてくれました」(礼子さん)

 妻の明るさに支えられた。

週刊新潮 2017年11月9日号掲載

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