フィギュア女子五輪代表「宮原知子」の祖母が語る サトちゃんの素顔とお年玉
ケガで大人になった
でもね、ケガして変わったんですよ。11カ月、東京の病院に行ったりしとったでしょ。そこには卓球の選手や、サッカーの選手とか、同じようにケガをした選手がいっぱい来はるんですってね。そこでみなさんが生活する姿を見たり、「みんなそうよ」と励まされているうちに、1人じゃないと考えるようになったんやないやろか。
それから色々話すようになって、19歳らしい女子になりました。精神的な成長にびっくりしているんです。木曜日はスケートの練習はオフなんですけど、学校終わってこちらへ一旦来て、英語の勉強に京都に行くんです。そこで、タクシーを拾ってね。その時にも「ばあちゃん、寒いなあ。知子、ユニクロでこんなん買ってくるけど、ばあちゃんにも買ってこよか?」なんて言ってくれてね。私、涙したんですわ。
父親も、ちょっと大人になったなあ、と言ってます。
――身長151センチと決して恵まれた体格とはいえない宮原だが、天才肌とは言われない。しかし、2011、12年の全日本ジュニア選手権で優勝し、15年の世界選手権で銀メダル、16年四大陸選手権で優勝し、全日本選手権は4連覇。これらを支えてきたのは圧倒的な練習量と言われる。
息子たちがアメリカの大学に留学したのは、サトちゃんが4つの時でした。アメリカのショッピング・モールにスケート場があって、やってみるか?と聞いたら、
「やる!」
と言うたんだそうです。それからスケートにはまったようですよ。
日本に帰ってきた時には小学校の3年生になっていました。京都にあったスケート場は醍醐スケートリンクだけ。あの子の両親は忙しいですから、学校が終わると、私が連れて行っていたんです。けど、私なんかじゃ、スケート靴のヒモも結べませんやろ。そこへたまたま通りかかって「結びましょか?」と言って下さったのが、コーチの濱田美栄先生やったんです。それが出会いで、いまも濱田先生にずっとお世話になっているんです。もちろん、ちゃんとお願いしたのは両親ですよ。
――だが、京都唯一だった醍醐スケートリンクは閉鎖されてしまう。スケートを続けるには、大阪、奈良、兵庫などへ出向かねばならなかった。
学校が終わる頃にお弁当を作って、リュックに入れて迎えに行くんです。私、車の運転はできないので電車です。3時頃ここを出て、学校でサトちゃん連れてスケート場に送って、私が家に戻るのは9時頃でしたかね。柏原(大阪府)やら奈良やら……、スケート場に送ってました。でもサトちゃんの練習が終わるのは、私なんかよりもっと遅い。そのころには仕事を終えた両親が車で迎えに行くのでね、私は送るだけ。大体毎日でしたね。
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