障害者芸人ホーキング青山「相模原19人殺害事件」を語る

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事件の衝撃を大きくしたものは

 昨年起きた「やまゆり園事件」については、1年以上経った今でも折に触れて話題となり、また議論の対象となっている。たとえば月刊誌「創」では、定期的に植松聖被告の手記を掲載。植松の意外な画才を紹介しつつ、事件の背景を探る試みを続けている。

 事件や事故が起きたあとに原因や背景を探り、その防止策を考えるのは言うまでもなく重要なことである。19人もの死者を出した「やまゆり園事件」ほどの事件ともなれば、様々な議論の対象となるのは当然だろう。

 もっとも、一人の障害者として見た場合、この事件に関する議論にずっと違和感を覚えていた、と語るのはホーキング青山さん(44)。生まれたときから手足が不自由なホーキングさんは、車イスの「障害者芸人」として20年以上活動している。

 そのホーキングさんは、最近上梓した著書『考える障害者』で、「『やまゆり園事件』を考える」として、1章丸ごと事件についての考えを述べている。ホーキングさんは、訪問介護事業所のオーナーでもあることから、そちらの立場からもこの事件について思うところがあるという。

 ホーキングさんは、この事件の衝撃を大きくしたのは人数や犯行声明の特異さに加えて、被告が介護職員だったという面があるだろう、と述べている。

「『障害者=聖人君子』とよく似ているが、『介護者(介護職員)=善意の人』あるいは『介護や福祉の世界で働く人=人格者』というイメージが世間にはある。看護師さんあたりに対しても似たようなイメージがあるだろう。『白衣の天使』というやつだ。

 でもここが難しいところだ。実際に介護関係で働く人は一般の人よりも皆障害者に理解はあるだろう。しかしだからといって皆が皆、世間で思い描かれているような天使のように優しく、またマザー・テレサのように無私で自己犠牲も厭わない、そんな人たちばかりでは決してない」(『考える障害者』より)

 

 実際に仕事として介護にかかわってみると、必ずしも高い理想を掲げて働いている人よりも、「仕事」の一種として割り切っている人のほうが長続きするという面もあるのだという。ともあれ、こうしたイメージと殺人者とのギャップの大きさが衝撃を大きくした、というのがホーキングさんの見方である。

被告はおそろしく極端な人

 そのうえで、事件についてもう少しシンプルに見た方がいいのでは、とホーキングさんは綴っている。改めてその真意を本人に聞いてみた。

「発生の直後から、障害者施設という特別な場所で起きた事件、というようにあまり考えない方が良いのではないか、少なくともその場所や被害者の『特異性』にばかり注目する必要があるのか、という点は冷静に考えてもいいんじゃないか、と私は思っていました。

 いったん障害者うんぬんということをおいてみると、あの被告は、不満があって自分から会社を辞めたのに、数カ月してから再びその会社に舞い戻って、会社のお客さんを殺した男、ということになります。

 ちょっと考えればわかりますが、勤めていた会社がどんなにひどいところでも、辞めたら普通はそれきりで、お客さんを皆殺しにしようなんて思わないでしょう。どんなにその会社やお客さんが嫌いでも、縁を切るために辞めたんだから、その人たちを殺す必要なんかない。

 それなのに被告は、辞めたあとも不満を抱え続けて、衆議院議長に手紙を書き、そして犯行に及んでいます。

 おそろしく極端に変わった人か、なんらかの病を抱えた可能性のある人だ、ということを大前提にしたほうがいいのではないでしょうか。

 本にも書きましたが、介護にかかわる人は聖人でも悪人でもなく、ほとんどは普通の人たちです。

『介護職員には差別感情がある』とか『介護職員の不満がたまっている』というようなナーバスな声をあげる障害者もいたのですが、それはちょっとピントが外れている気がします。ここまで極端な人をベースに考えなくてもいいんじゃないでしょうか。

 同様に『日本社会のヘイトを容認する風潮が背景にある』といった意見も目にしましたが、これもピント外れというか、自分の言いたいことに事件を利用しているような感じがしました」(ホーキングさん)

お前が殺していいわけない

 植松被告は、衆議院議長にあてた手紙の中で、犯行の動機として、「保護者の疲れきった表情」「職員の生気の欠けた瞳」を挙げ、こういう障害者を生かしておくことは「税金の無駄遣い」だ、といった主張を述べている。

 これに対して、事件直後、報道では「被害者はしゃべることはなかなか難しかったけれども、笑顔が素晴らしかった」といった情緒的な報道がよく紹介されていた。一見、普通の人と違う障害者にも、周囲を幸せにする力はある、それがわからない被告は酷い奴だ、という論理である。しかし、これに対してもホーキングさんは疑問を呈する。

「じゃあ笑顔を見せない、偏屈な障害者はどうなるのか。保護者や職員を疲れさせる障害者はどうなのか。そういう人なら殺していいのか。

 そんなもんじゃないでしょう。

 たとえ家族や職員に迷惑をかけ、また税金を使ってもらうことになっても、生まれてきた以上は生きたい――これが私も含めて、ほとんどの障害者の気持ちのはずです。

 もちろん、際限なく税金をつぎ込むことはできるはずもないし、あらゆる人に負担を強いることもできません。そんなことはわかっています。『俺たちは生きたい。だから何とかしろ』と居直るほど、皆図太くも強くもありません。

 でも、だからといって『殺してもいい』というのはあまりに短絡的すぎます。

 この世には障害者ではなくても世間に迷惑をかけている人はいっぱいいます。でも、そんな奴だから『殺していい』『死んでもいい』とは普通は言いません。なぜ障害者だけ、いきなり他人に生き死にのことを言われなきゃいけないんだよ! と私は思います。

 繰り返しますが、被告はかなり頭が規格外の人です。こういう人の言うことを真に受けて、障害者の『生きる意味』を論じること、それ自体が何かおかしいのではないでしょうか。どこか相手の術中にはまっているというか。

 もちろん社会が障害者にどれだけ人的、金銭的コストを費やすべきか、という重い問題は存在し続けていますし、考え続ける必要があるでしょう。

 でも、あの被告に対しては四の五の言わず、『お前が勝手に他人を殺していいわけないだろう。バカ野郎』でいいんじゃないでしょうか」(ホーキングさん)

 被告の動機を知ること、背景を知ることは重要だろうが、それがシンプルな理解を妨げることもあるのだろう。「勝手に人を殺していいわけないだろう、バカ野郎」で十分な時もあるのかもしれない。

デイリー新潮編集部

2017年12月28日掲載

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