100年前に設立“ユートピア”の草分け 「新しき村」は今も存在している
武者小路実篤のユートピア
「新しき村」をご存知だろうか。高校などで学ぶ文学史を一所懸命勉強した方ならば、あるいはかなりの年配の方ならば、「ああ、あれね」と思いあたるかもしれない。
「新しき村」は、文豪・武者小路実篤が自身の理想をもとに1918年に設立した、生活共同体である。
その理想とはどういうものか。武者小路実篤自身がわかりやすく問答形式で説明した文章が残っているので引用しよう(機関誌「新しき村」創刊号より)。
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「A 君は新しき村を建てたがっているそうだね。僕の弟も仲間に入りたがっている。一体新しき村と云うのはどんな村なのだい。
B 新しき村と云うのは、一言で云えば皆が協力して共産的に生活し、そして各自の天職を全うしようと云うのだ。皆がつまり兄弟のようになってお互に助けあって、自己を完成するようにつとめようと云うのだ。
A それなら田舎に引込む必要はないだろう(略)
B (略)自分達は今の資本家にもなりたくなく、今の労働者にもなりたくなく、今の社会の食客的生活もしたくない、そう云う生活よりももっと人間らしい生活と信じる生活を出来るだけやりたいと思うのだ。
A 人間らしい生活とはどう云う生活だ。
B 人間らしい生活と云うのは、人類の一員としてこの世に生活してゆくのに必要なだけの労働を先ず果して、そして其他の時間で自分勝手の仕事をしようと云うのだ」
冷笑の的に
ごく大雑把に言えば、田舎で農業などをしながらできる限り自給自足の生活を送りつつ、自由時間には村人たちで芸術やスポーツを楽しむ――そんなユートピアを目指したのである。こうしたアイディアは、古今東西に見られ、日本では主に新興宗教団体が類似の共同体の設立を試みてきた。
実篤のこの構想は、第1次世界大戦後の不安定な社会状況の影響もあり、一定の支持は得たものの、あまりに空想的だということで、当初から知識人やジャーナリズムの冷笑の対象にもなっていた。
実際、このユートピアは順風満帆だったとは言えない。そもそも農業は素人が簡単に手を出してうまくいくようなものではない。実篤はもちろん、村外の支援者からの資金援助などがあっても、村人の生活は苦しかった。
さらに当初は宮崎県内に作られた村が、ダムの下に沈むこととなり、1939年には埼玉県入間郡への移転が余儀なくされる。
村人たちは今
さて、多くの人が教科書で学んだのは、おそらく実篤がこういう村を作った、というところまでだろう。そしてとっくに滅びているだろう、と思う人が大半ではないか。
しかし、実はまだ「村」は存在しているのだ。埼玉県入間郡毛呂山町には今でも、実篤の理想を受け継いだ村人10人が住んでいる(創設の地の日向の新しき村には2世帯3名)。
村の誕生から現在までをまとめた『「新しき村」の百年』(前田速夫・著)によれば、現状は次のようになっている。
【土地】10ヘクタール(登記済)、借地3ヘクタール
【村内生活者】10名
【村外会員】約160名
【耕種農業】水稲2ヘクタール余。茶、椎茸、野菜など。
【その他】理容室(村内中心)、月刊雑誌《新しき村》を発行。
【生活状況】生活費税金等を含めて1人平均年間120万円程度、普通の状態では、大体収支バランスは安定している。
労働は1日6時間、週休1日制を目標にし、年間平均では大体支障なくすすんできたが、最近は困難になってきている。
客観的に見れば、物質的に恵まれた生活とは言い難い。また、村人の高齢化もすすむ一方で、深刻ではある。それでも東日本大震災等を経た日本に、こうした理想を持つ共同体は必要性は増している、と『「新しき村」の百年』の著者、前田氏は記している。現在の村を前田氏は次のように描写している。
「都心に近いというのに、いつ行っても新しき村は緑が濃く、春先は小川にメダカが泳ぎ、初夏は田圃にホタルが舞う。職住接近。生涯現役。農作業をはじめ、仕事は楽ではないが、賃金を得るための労働と違って、喜びがある。生活は質素だが、1日6時間の仕事以外は自分のしたいことが、いくらでもできる。共通の話題、共生の空間を有する仲間たちがいて、つかず離れずにつきあい、老後の心配もない」
むろん、これは少々美化しすぎの面もあるかもしれない。実際には前述の通り、経済面を見ても、また人口構成を考えても不安要素は大きい。それでも前田氏は、同書でこう問いかけている。
「なるほど、現代には稀な理想社会であり、異空間である。自ら意志してここでの生活に飛び込み、満足に暮らしている村民を、人は愚者と呼べるだろうか」
来年は設立から100年。多くの人の冷笑を乗り越えて、村は今も存在している。