「どうしたら頭が良くなるのか」――養老先生はこう答えた

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1日10分自然のものを見よ

「どうすれば頭が良くなるのでしょうか」

 こんな素朴すぎる問いに、どう答えればいいのか。 

「とにかく勉強しろ」「遺伝だから諦めろ」等々、色々な回答が想定されるが、『バカの壁』でお馴染みの養老孟司先生は、講演先などでよくこう答えている。

「1日に10分でいいから、自然のものを見るといいですよ」

 なぜ自然のものを見るといいのか? 「緑が目に優しい」→「目が良くなる」→「本を読むようになる」→「頭が良くなる」といった「風が吹けば桶屋が儲かる」式の理屈なのか?

 新著『遺言。』では、その真意を次のように説明している。ちょっと込み入った理屈だけれども、同書より抜粋・引用しながら解説してみよう。

 この本の中で、養老先生は「感覚所与」と「意識」に関する問題を論じている。「感覚所与」とは哲学用語で、ものすごく簡単にいえば、人の感覚器(目や耳や口など)に入ってくる第1次印象のことだ。代表的な例として目に入る光、耳に入る音のことだと思っておいてもいい。

 一方、「意識」はこういう感覚器から入って来た情報を、脳内で「意味」に変える。たとえば「焦げ臭い」と鼻で感じた場合、「火事じゃないの」と判断するのが「意識」の役割である。

 往々にしてヒトの「意識」は、このような「意味」が感じられない情報を無視する癖を持つ。それどころか、現代生活はなるべく感覚が働かないように努める傾向が強い。養老先生は、ここに問題があると指摘する。

「たとえば丸の内のオフィスにいたとする。風は吹かない。雨が降らない。エアコンがあるから、温度は一定。床は平坦で、堅さはどこも同じ。

 代わりにオフィスではなく、山の中を歩いてごらんなさい。地面はデコボコ、木の根や草がある。雨が降ったらぬかるむ。風が吹き、いつの間にか日が傾き、明るさが変化する。小鳥がさえずり、小川が流れ、それが森に反響して、じつにさまざまな音がする」

世界を意味で満たす意識

 都市の生活は、このような感覚からの情報をできるだけ遮断するつくりになっている

「感覚所与を意味のあるものに限定し、いわば最小限にして、世界を意味で満たす。それがヒトの世界、文明世界、都市社会である。

 すべてのものに意味がある。都会人が暗黙にそう思うのは当然である。なぜなら周囲に意味のあるものしか置かないからである。しかもそれを日がな一日、見続けているのだから。世界は意味で満たされてしまう」

「意味がない」と勝手に思うな

 この状態に慣れ切った人たちは、意味がない(と自分が思う)ものの存在を許さないようになってくる。これが極端な形であらわれたのが、相模原市で生じた19人殺害事件だ。

 問題は、自分にとって「意味がわからない」ものに接したときの姿勢だ、と養老先生は指摘する。「私にはそういうものの存在意義はわかりません」と思うのが当然なのに、自分がわからないことを「意味がない」と勝手に結論づけてしまう。ここに現代人の大きな勘違い、問題があるというのだ。

「なぜそうなるかというと、すべてのものに意味があるという、都市と呼ばれる世界を作ってしまい、その中で暮らすようにしたからである。意味のあるものしか経験したことがない。そういってもいい。

 山に行って、虫でも見ていれば、世界は意味に満ちているなんて誤解をするわけがない」

 そう、実のところ世界にあるもののほとんどの「意味」をヒトはわかっていない。すべての「意味」を理解できると勘違いすれば、好奇心なんか生まれるはずもない。だからこそ普段から自然に接するべきだ、というのである。

「それができなければ、せめてオフィスに意味のないものを置いてみる。それだけでも随分違いますよ」

 養老先生は、最近、取材ではしきりにこんなアドバイスも口にしている。

 もちろん、「そんなことでどうなるというのか」と疑うのも、「自然を見たらどうなるのか、もっと具体的に説明しろ」と「意味」を求めるのも自由。

 ただし、常に自然と接している養老先生が今年80歳になってなお知的好奇心を持ち続け、新著を一気に書き下ろせるだけの丈夫な脳を持っているのは事実である。

デイリー新潮編集部

2017年11月25日掲載

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