「楽にしてやれるのは、俺しかいない」――介護の末、実母を殺した50代男性の告白
「私が殺めてしまったのは、私の実の母です。認知症を患っておりました。……私を産んでくれた母を、自らの手で命を奪ってしまったことを、罪の大きさを……深く反省しております」
これは、認知症になった母親の介護を始めて2カ月後に、母を殺害した50代受刑者男性の言葉だ。男性は2014年の冬、公営住宅で80代の母の首を絞めて殺害したあと自首し、三重刑務所に服役している。
近年、介護をめぐる家族間の殺人や心中などの事件が多発している。厚労省の調査によれば、介護している親族による事件で、被介護者(65歳以上)が死亡に至った事例は、2006年度から2015年度までに247件起こっているという。
なぜ介護殺人が起こってしまうのか。当時、この事件を取材したNHKスペシャルの記者は、『「母親に、死んで欲しい」介護殺人・当時者たちの告白』で、殺人が起こってしまった経緯を紐解いている。(以下、「 」内同書より抜粋、引用)
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「現場は郊外の小高い丘の上にある公営住宅。よくある一般的な作りの集合住宅だった」
近所の人たちによれば、家族は数十年前からこの住宅に住んでいて、近所付き合いも深い方だったという。亡くなった80代の母親は、数年前から車椅子の生活になったが、近所の人たちとの仲も良く、息子と一緒に買い物に行ったり、朝にデイサービスに出かける姿も目撃されていた。
公営住宅を訪ねた記者が、まず話を聞けたのは母親を殺害した男性の兄だった。実はその兄こそが長年母親の面倒をみていた息子だと近所の人たちは証言している。
「兄は、『二度と自分たちのような事件が起きて欲しくない。在宅介護の限界について知ってもらいたい』と話した。
兄は60歳。自宅近くのメーカーの工場でずっと働いてきた。実直で真面目な性格は話しぶりからも伝わってくる。父親は20年ほど前に他界。兄弟は3人いるが、それぞれ独立し、兄だけがこの公営住宅に残り、母親と2人で暮らしてきたという。
事件の1年半ほど前のことだった。一緒に買い物をして自宅に帰る途中、母親は公営住宅の廊下で転倒し、背骨を骨折。入院生活を余儀なくされた。この入院中に、母親の認知症は大きく進んでしまったのである」
ある晩、母親は自分のことも誰だか分からなくなり、入院中に重度の介護を必要とする要介護度4にまで悪化。退院してからの介護は壮絶なものだった。深夜も1時間に2,3回はトイレに起きて、大声を上げてふすまをたたく母親。その度に起きて世話をした兄は、ほとんど眠れない日々が続き、ついに倒れて、救急車で運ばれたという。しかし、それでも介護は終わらない。兄は、言いづらそうに「母に手をあげてしまったことがある」と語る。
「深夜に、騒ぎ続ける母親。自分のことが誰だか分からないと繰り返す。なだめても、なだめても、止まらない。どうしたら、止まるのか。とっさに、母親の頭を叩いた。その時母親は、不意に我に返り『ごめん』と謝ったという。眠れない夜は、毎日やってくる。1度だけ、疲弊に耐えかね、『死ね!』と怒声を浴びせてしまったこともあった。このままでは、母親を手にかけてしまうかもしれない――」
ひとりで介護することを諦めた兄が頼ったのが、50代の弟だった。失業中で生活保護を受けていた弟は、実家に戻り、兄と分担して母親の面倒を見ることになった。弟は献身的に介護をしたという。兄も弟と一緒に母親を介護することになり、気持ちにゆとりが出来た。これからは、兄弟で助け合って介護を続けていけると考えていた。
「しかし、同居を始めて2カ月。弟は、母親を殺害した。事件は、朝、兄が会社に出かけた後に起きた。弟が電気毛布のコードで母親の首を絞めて殺害した。その電気毛布は母親が寒くないようにと、兄が買ってあげたばかりのものだった。兄の職場には、警察から電話がかかってきた。まさか、弟が事件を起こすとは思っていなかった。
弟と会ったのは、警察署だった。面会中、弟は泣きわめきながら謝った。『一番、かわいそうなのはおふくろや』と」
母を楽にしてやれるのは俺しかいない
記者は、三重刑務所で服役していた弟に話を聞くことができた。刑務所内の会議室で行われた40分間のインタビュー。そのとき彼が語った言葉はどのようなものだったのか。
「25年ぶりに実家に戻った弟の目に映ったのは、認知症の症状によって変わり果ててしまった母親の姿だったという。
『母は日本語ではないなにか……、ワーワーワーワーっていうのを言われて……、何を言っているのか全く分かりませんでした。意思の疎通が出来ない時間が1日のうちの大半だったので、それが一番つらかったです』
目の前の母親と、自分の記憶の中の母親との大きな隔たり。その状況を弟はこう表現した。
『私は母のことを、母の皮をかぶった化け物だと思っていました』」
意思の疎通ができない母の介護を続けていくうちに弟は追い詰められていったという。それでも、一生懸命介護をしようと、母親が暴れた時には繰り返し頭を優しくなでながら、言葉をかけ続けたり、手にハンドクリームを塗ってあげたりした。しかし、ある時我慢の限界を感じ、暴れる母親の頬を思いっきり平手で叩いてしまった。すると母親が静かになったので、それ以降2人でいる時に、繰り返し手をあげるようになったという。
「犯行を決意したのは、事件数日前の晩だった。トイレから出てきた母親が、大便まみれになっていた。パジャマの上下にも、手にも、『どうやったらそんなにつくのか』というぐらい、大量に大便をつけていた。
『一番つらくて一番かわいそうなのは、母本人なんだなと思いました。私は母を楽にしてやれるのは俺しかいないと決めて、その2、3日後に犯行に至ってしまいました。それが全てです』
握りしめた拳に、涙が滴っていた。今、振り返ってどう感じているのか尋ねた。
『一番の原因は、私自身に、母の認知症という病気の知識や理解がなく、理性が欠如していたからだと思います』『どれだけ謝っても謝り足りない、本当に大きな悪いことをしてしまったとただ謝るばかりです』
なぜ、介護から逃げなかったのか――。事件を起こしてしまうぐらいなら、家を出るという選択はできなかったのか。私たちは最後に聞いた。
『なぜ自分が、介護を担わなければならないと思ったのですか』
それまで途切れることなく話し続けていた弟は、しばし考え込んだ。そして一言だけ、絞り出すように言った。
『家族…だから…です』
この一言に、これまでの思い、苦しみ、全てが込められているのではなかと感じた。弟はインタビュー中のほとんどの時間、涙を流し続けていた」
番組放送後、兄の元には、番組では匿名だったが、兄だと気づいた近所の人や同僚から思わぬ励ましの声が相次いだという。母を失い、弟は刑務所に入った。それでも兄は、事件の記憶が残る家からも引っ越さずに、弟の出所を待ち続けるという。
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多くの介護殺人を見てきたNHK報道局社会部警視庁キャップは『「母親に、死んで欲しい」介護殺人・当事者たちの告白』のあとがきにこう綴る。「今回の取材で見えてきたのは、日々の介護で精神的に追い詰められる中、ちょっとした出来事で一線を越えてしまうという介護者の実態だった。“介護殺人”を犯した人との間に一線などない。誰しもが陥ってしまう可能性を秘めている」。そう、この殺人は“ひとごと”ではないのだ。我々一人一人にいつ降り掛かってもおかしくない悲劇である。誰もが「明日は我が身」と真剣に考えながら、介護に関する制度や考え方を改めていく必要があるだろう。