故・羽田孜元首相の義弟が語る「省エネスーツ」と「小選挙区制」の思い出
弔問に駆け付けた小沢一郎
92年、羽田元首相は小沢一郎氏、渡部恒三・元衆院副議長らと共に「改革フォーラム21(羽田派)」を結成。93年に宮沢喜一内閣が政治改革関連法案の成立を断念すると、野党提出の内閣不信任案に賛成。集団離党して新生党を結成、党首に就任して衆院選で55議席を獲得し、非自民・非共産連立の細川護熙内閣誕生に大きく寄与する。羽田元首相は細川内閣で副総理兼外務大臣として入閣する。
しかし94年に細川首相は辞任を発表。後継として羽田首相が誕生するも、社会党が連立を離脱。小数与党内閣として厳しいスタートを強いられ、内閣総辞職に追い込まれる。在任期間64日、戦後2番目の短命政権という不名誉な記録を残した。
2009年に民主党の政権交代を見届け、12年の衆院解散で引退を表明。この選挙で民進党は大敗、再度の政権交代が行われ、安倍政権がスタートする。
そして17年8月28日、老衰のため死去。満82歳だった。
「公表の際、『身内以外の弔問はご遠慮させて頂きます』と付け加えたんですが、小沢一郎さんと細川護熙さん、そして熊谷弘さんは、すぐに駆け付けられました。小沢さんは葬儀・告別式で弔辞を読まれたんですが、原稿を手に持っていなかったのが印象に残りました。内容も真情溢れるもので、よく言われる“豪腕”とは全く違った面を見せて頂いたような気がします」
小沢氏との不仲が伝えられていた頃、渡邊会長が羽田元首相に2人の関係を訊ねたことがあった。返ってきたのは「あいつと俺は、海外のホテルの同じ部屋で、パンツ一丁で過ごしたこともある仲だ。少しぐらい意見の相異があっても、どうということはない」というものだった。渡邊会長は「葬儀での小沢さんを拝見しながら、そんなエピソードも思い出しました」と振り返る。
[4/5ページ]