カズオ・イシグロ、渡英57年でも日本の名残り 関係者が語る

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「私の一部は、いつも日本人と思っていた」――。今年のノーベル文学賞に輝いた日系英国人のカズオ・イシグロ氏(62)は、自らの世界観に日本が影響していると会見で語る。長崎市で生まれ、1960年、5歳の時に渡英。以来、57年間でたった3回しか祖国の土を踏んでいない作家のルーツを辿ってみると……。

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 色鮮やかな山車や傘鉾が、坂の多い港町を練り歩く。法被を着た男たちの勇壮な掛け合いは、故郷が生んだ作家の偉業を喜ぶ歓喜の声と重なる。イシグロ氏が産声をあげた長崎では、収穫を祝う秋の風物詩「長崎くんち」が盛大に催された。

 奇しくも、祭りの始まる2日前に受賞の発表があったばかり。生家があった市内の新中川町には、さっそく文学ファンが足を運ぶ姿も見られたという。

 イシグロ氏が渡英する直前まで通っていた近所の桜ヶ丘幼稚園の恩師・田中皓子(てるこ)さん(91)が振り返る。

「カズオちゃんは物静かで、よく絵本を読む子。本当に手のかからない、おとなしい子でした。他の子たちは、お相撲や土遊びをして制服が泥まみれになったりしていたのに、カズオちゃんの制服はいつもキレイだったわ。今考えてみれば、お友達が遊んでいるのを見て、いろんな思いを巡らせて、自分の世界に入っていたのでしょう。決して寂しそうには見えなかったですよ」

 当時から思索家の雰囲気を漂わせたイシグロ氏は、どんな環境で育ったのか。

 街の顔役である自治会長を務めていた末次初己氏(88)が話すには、

「イシグロさんは、お金持ちで“よかとこの人”です。この辺りはいわゆる高級住宅街ですが、その中でも石黒家は、重厚な木造のお屋敷でね。大きな日本庭園もありました。お祖父さんは恰幅のいい人でしたよ」

 戦前、イシグロ氏の祖父・昌明氏は、中国に渡って伊藤忠商事の天津支社に勤務。上海ではトヨタ自動車の本家・豊田自動織機の現地法人の設立に際して責任者を務めた。上海租界で財を成し、日中を往復するビジネスマンだったというのだ。

 イシグロ氏の両親と親交があり、『カズオ・イシグロ 境界のない世界』の著書がある昭和女子大学の平井杏子・名誉教授が言う。

「イシグロさんは、長編5作目『わたしたちが孤児だったころ』の執筆にあたり、祖父から受け継いだ家族アルバムを参考にしました。父親の鎮雄氏は長崎気象台に勤め、また海洋学者として高潮や津波に関する論文が評価され、ユネスコの支援を受け単身で英国に赴き研究生活を送り始めます」

 その留守中、長崎の家でイシグロ氏の父親代わりになったのが祖父だった。

「正式に英国政府の招きを受けた父は、一家で渡英しますが当初は1年間のつもりだった。そのため、祖父から貰った大切なおもちゃも長崎の自宅に残したまま。けれど、研究が長引き滞在は1年、また1年と延びていったといいます」(同)

 そんな幼少期の体験が、作品に度々描かれる祖父と孫の交流に繋がったという。

「長崎に残った祖父は、孫のために『オバケのQ太郎』といったマンガ本や、『小学一年生』といった雑誌を送っていた。そのおかげで、イシグロさんは英国に住みながら、日本の文化に触れて育ちます」(同)

 実際、イシグロ氏の従兄弟で長崎に住む獣医師・藤原新一氏(71)も、

「昌明おじいちゃんは、イギリスにいるカズオが日本語を忘れないよう日本のマンガ本や子供向けの小説をよく送っていたそうです」

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