旧日本軍の潜水艦が沈めた「原爆運搬」米艦 両艦長の知られざるドラマ

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インディアナポリスの“荷物”

 実はインディアナポリスは、ただの重巡洋艦ではなかった。艦長のチャールズ・バトラー・マクベイ大佐は終戦のちょうど1カ月前、母港のサンフランシスコで2人の高級将校から重要な密命を与えられていたのだ。

 彼らはマクベイに、

〈高速でテニアン島へ行って、島で荷物を受取人に渡すこと。(中略)万一艦が沈没したら、荷物を助けるためには万全を尽し、必要とあれば救命ボートに積んでも救わなければならない〉

 との条件を告げた上で、

〈君の艦の航海が一日縮まれば、戦争の期間もそれだけ縮まることになる〉(ゴードン・トマス、マックス・モーガン=ウィッツ、松田銑訳『エノラ・ゲイ』より)

 そう命じ、マクベイは頷いている。この2人は、原爆製造の「マンハッタン計画」に関わる陸軍の将校たちだった。“荷物”はウランの弾丸が入った鉛のバケツだと伝えられたが、マクベイはそれが何であるのか、密かに首をひねっていた。

 インディアナポリスは1932年に竣工した老朽艦。日本軍による真珠湾奇襲後にレーダーを装着していたとはいえ、およそ最新鋭の軍艦とは言い難いものだった。

 その老朽艦に、なぜマンハッタン計画で造り上げた原爆の部品を運ぶという大役が与えられたのか。マクベイだけでなく、海軍の提督らにも理解不能だったのだが、さしたる理由はなかったとされている。というのも同艦は、沖縄戦で特攻隊の攻撃によって船体に大きな穴が開けられ、西海岸の港町で修理を受けて再び戦場に戻っていくところだったからだ。

 ともあれ7月16日午前8時、“荷物”を積んだインディアナポリスはテニアンに向け、サンフランシスコ港を出港した。護衛の船団は全くなく、途中真珠湾に着いたのは19日午前10時半。サンフランシスコを発って74時間半後だったが、これは従来の航海時間を上回るスピードで、マクベイも士官たちも大喜びであった。26日にはテニアンに到着し、現地で“荷物”を降ろすと、その後はグアム島に寄港してレイテへ向かう方針が決まった。

 だが、そのレイテへの途次、米軍の艦艇を待ち受けていた伊58と出くわすことになるのである。

 艦長の橋本以行(もちつら=海軍兵学校59期=)は昭和14年に海軍水雷学校で学び、以後はもっぱら潜水艦に勤務、19年9月7日から伊58艦長の任にあった。橋本の実家は由緒正しい京都・梅宮大社で、代々神職という家柄。この出自が、彼の人生を特色付けたともいえよう。

 伊58は特攻兵器である“人間魚雷”回天とその要員を乗せ、7月18日に山口・平生(ひらお)基地を出撃。フィリピン海域へと向かった。そして29日にインディアナポリスと遭遇し、魚雷戦が展開されるのだが、実際には日本側による一方的な攻撃であり、マクベイは潜水艦の出現にはまったく気づいていなかった。

 海戦を再現すると──。

 29日の午後10時30分、艦長室で睡眠中だった橋本は、予定されていた起床時刻となったため、司令塔にいた哨戒長によって起こされた。

 一方のマクベイは同時刻、夜間の作戦行動についての命令書にサインをしていた。この日は敵艦に出会わないと考えて蛇行、いわゆるジグザグ航行は行わなくてよいとし、艦長室で眠りに就こうとしていた。インディアナポリスは視界不良の中、レイテを目指していたのだが、その判断により結果的に伊58の方向へと直進することとなったのだ。

 両艦長にとって、ここが運命の分かれ目であった。

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