「タイガース」4年で解散の真相を元メンバーが語る
グループ・サウンズ(GS)が流行った頃は、長髪やエレキギターは不良の象徴、コンサートに行った高校生は停学処分をくらった時代である。中でも「ザ・タイガース」は昭和42年(1967)2月に「僕のマリー」でデビュー。二十歳そこそこで、時代の寵児となった。もっとも、活動期間は4年に過ぎない。元メンバーの森本太郎が語った、タイガース解散の真相――。
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森本は、元々岸部一徳、瞳みのると中学の同級生で、京都のダンス喫茶「田園」でよく踊っていた。そこに瞳が加橋かつみを連れてきて、4人で遊ぶようになったという。森本が語る。
「中学時代の同級生が先にバンドを結成して演奏を始めていた。それを見た僕らもやろうという話になってベンチャーズのコピーバンドを始めました。その後、ボーカルが必要になって、知り合いの紹介で沢田(研二)が加わったんです」
シングル「君だけに愛を」(43年1月発売)や「銀河のロマンス/花の首飾り」(同年3月発売)は100万枚以上のヒットを記録。タイガースは“GS御三家”の一つと言われ、一躍人気者になった。
「解散したのは45年も前だからね。これはあくまで僕が話す解散の話で、他のメンバーの認識とは違うかもしれないということは分かってほしいです」
森本は、そう前置きして話を続ける。
「解散に至る転機は、やはりかつみの脱退(44年3月)だね。ナベプロにスカウトされてこの世界に入った時、僕ら5人とマネージャーは世田谷の烏山にあった一軒家で共同生活をしていた。ところが、半年もしないうちにファンからその家を突き止められて、四谷の左門町のアパートに引っ越すことになったんです。僕と瞳は同じ部屋に住んでいましたが、彼は当時創価学会員だったから部屋に仏壇を持ち込んでいました。彼から誘われ、僕と沢田なんかで学会の青年部の集まりにも行ったことがあります。先日、瞳に会った時に聞いたら、学会は辞めたと言ってましたけどね」
ところが、左門町のアパートに加橋は一緒に住まなかったという。
「かつみは、どちらかというと団体行動が苦手なタイプでした。それもあってか、飯倉で一人暮らしをしていました。で、デビューしてから約2年、44年春にレコーディングをすっぽかして、そのまま居なくなっちゃったんです」
人気が絶頂に達していた頃に起きた、加橋の突然の脱退騒動。大騒ぎになったことは言うまでもない。
「事務所と僕らの間で音楽性については、デビュー当時から方向性が違いました。僕らは、元々洋楽ロックのカバーを多くやっていたわけですよ。ところが、デビュー曲はすぎやまこういち先生と橋本淳先生が作った『僕のマリー』。ジャンルとしては、どう考えてもロックじゃなかった。でも、これって先見の明なんですよね。だって、僕らがロックグループとして売り出したとしても、楽器が下手だったからね。絶対に売れなかった。その点は、かつみも分かっていたと思いますから、音楽性の違いで辞めたんじゃないと思います」
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