「ルビー・モレノ」が懺悔する「フィリピンに逃げ帰ったワケ」

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大きな失敗

 ルビーが祖国に逃げるように帰ったのは、95年9月のこと。日本に居場所を失った彼女にとって、頼る相手はフィリピンの家族しか残されていなかったという。

「その日は大阪で崔洋一監督と一緒に、映画『月はどっちに出ている』のイベントに出演する予定だったの。それを私はすっぽかして、東京駅ではなく成田空港に向かい、そのままフィリピンに飛んじゃった。携帯電話の電源は切ってあるから連絡はつかないでしょ。その日から私は色々考えるのをやめにした。こっちから泣きは入れない、絶対に誰かがフィリピンまで来て頭を下げてくれるはずって思っていたのです」

 当然ながら、1年が過ぎても彼女のもとには誰かが来るどころか、一本の電話すら入らなかった。

「さすがに後悔し始めてね。フィリピンでの女優業も上手くいかなくなっていたし、それで事務所の社長に電話で謝った。すると“取りあえず帰って来なさい!”って言ってくれて……。それで約2年後の97年の7月に日本に戻ったんです。もっと早く帰るべきだったって、いまは後悔しきりです。だけど、あの時は若いから意地になってたんですね」

 どうにか謝罪は受け入れられ、事務所への復帰は認められた。ところが、以前のような女優の仕事は望むべくもなかった。

「どれだけ私が大きな失敗を犯したのか、その時にはっきり実感したんです。一度失った信用はなかなか取り戻すことはできないんですね。決して昔みたいに忙しいとは言えず、ポツポツと仕事は入るけど、それは『あの人はいま』っていう企画が多かった。最初のオファーの時は、名前が出れば、また映画の仕事も来るかなって思ったんだけど、何カ月かして来た次のオファーも同じ内容。何だか悲しくなっちゃった」

 収入も、かつての何分の1かに落ち込んだという。

「だから私、色んなアルバイトしたよ。水商売はもうしたくなくて、アイスクリームのコーンを作る工場や、ひたすらおしぼりを丸める仕事もやった。ライブ会場のスタッフをした時は、お客さんの1人が私に気付いてサインを欲しがって。あの時は恥ずかしかったな」

 身勝手な過去の振る舞いも反省しきりだそうで、

「復帰してすぐ、研ナオコさんには土下座をして謝りました。優しい方で、すぐに許してくれました。ただ、崔監督とはあれっきり。いずれ、きちんとお詫びしなきゃと思ってます」

 最近はドラマの仕事も入り、再び演技ができる喜びを噛み締めているそうだ。

「撮影の日の朝、ロケバスに乗って“おはようございます!”って挨拶をするでしょ。そしたら、女優に戻れたんだっていう嬉しさに涙がポロポロ出てくるの。やっぱり私、女優の仕事が好き。これからはもっともっと、テレビにも出て行きたいと思ってるよ」

 名声、財産、順調だったキャリア……。その喪失感を噛み締めるように語る様は、自分自身に言い聞かせるようでもあった。

週刊新潮 2016年8月23日号別冊「輝ける20世紀」探訪掲載

ワイド特集「芸能史に刻まれた『衝撃ニュース』の主役」より

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