「ルビー・モレノ」が懺悔する「フィリピンに逃げ帰ったワケ」

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 いまも昔も外国人の「タレント」は珍しくないが、「女優」の成功例は数少ない。その稀有な例が、1990年代に活躍したフィリピン出身のルビー・モレノだった。情感あふれる演技力で売れっ子女優の仲間入りを果たしたものの、直後に経歴詐称や相次ぐ仕事のドタキャンが発覚。自らを表舞台から追いやった、騒動を本人が語った。

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「あの頃はもう、叩かれても仕方がないくらい天狗になってたわね。感覚的に“私が主役なんだから、私中心で当たり前でしょ”って思ってたの。撮影現場にも、時間通りに行くことはなくて、平気で遅刻をしてました。当日に仕事をする気分じゃなくなると、断りもなくスタジオに行かなくなったりね。いつだったか、研ナオコさんの番組の収録をすっぽかしたこともありました」

 東京・西麻布の所属事務所の一室で、ルビーはバツが悪そうに切り出した。

 彼女がブレイクしたきっかけは、初めて主演を務めた映画「月はどっちに出ている」(93年公開)だった。大阪に住むフィリピン人ホステスという役柄で、その演技が日本アカデミー賞を始め、ブルーリボン賞や毎日映画コンクールなど国内9つの映画賞で主演女優賞などを獲得したのである。

「それでもう、人生がいきなり変わっちゃった。収入は一気に増えたけど、金銭感覚がしっかりしてないでしょ。だから、お金が入るとやたらにブランド品を買い漁ったり、ずいぶん浪費をしましたよ」

 期せずして訪れた“わが世の春”。ところが、彼女には事務所にも隠していた過去があった。当時、ルビーはプロフィールを「旅行会社のOLの時に日本を旅行していてスカウトされた」「結婚歴なし」などとしていた。ところが、実際の彼女は18歳の時から都内のフィリピンパブで働いていた元ホステスで、2度の結婚と出産を経験していたのである。映画賞での快挙は、文字通り地でいく“演技”の賜物だったわけだが、ほどなく、ウソの経歴が週刊誌で取り上げられ、ルビーには厳しい批判が殺到した。

「でもね、せっかく人気が出た時に、わざわざ自分から“子どもがいます!”なんて言わないでしょ? そんなことは誰からも聞かれなかったし、私も女優らしくしていなきゃいけないと思ってたし。今みたいにブログとかフェイスブックとかがあったら、普通に公表してたかもしれないけど」

 すぐに釈明会見を開いたものの、すっかり世間の風向きは変わっていた。バッシングは過熱の一途を辿り、その最中に仕事のドタキャンや事務所との金銭トラブルなど、日頃のルビーの行状が次々暴露されたのだ。

「報道には間違いもたくさんあったけど、私に反論する場はなかった。ずいぶん辛い思いもしましたが、性格的にはポジティブな方だから、ストレスが溜まると、友だちとディスコに行って、夜通し踊ったりお酒を飲んだりして発散してました」

 そんな中、起死回生を狙ってヘアヌード写真集を出版したこともあったが一過性の話題に終わり、彼女はますます追い詰められていったのである。

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