80年代「トヨタ」は米国圧力になぜ打ち克てたのか 大物密使「ケイ菅原」の存在
極秘資料
1988年に菅原は肝臓がんで死去したが、これまで私は家族の許可を貰って彼が遺した膨大な書類を閲覧してきた。その中にGOKUHI(極秘)、Confidential(機密)と記入されトヨタ幹部と個人的に交わした書簡があり、その一つ、1984年8月15日付けの加藤誠之への私信にはこうあった。ちなみに当時監査役の加藤はかつてトヨタ自動車販売(後にトヨタ自動車工業と合併)の社長であった。
「米政権関係者と貿易不均衡について会談を重ねているが、彼らは日本からの輸入に対する議会の感情を心配している。保護主義を食い止めるためにレーガン政権と共に動いているが、あなたも会った民主党の候補者モンデールは輸入規制法案に前向きである。その一方で日本のほとんどの自動車メーカーは米国でのイメージの改善に力を注がず水面下に潜む危険に気づいていない」
文面からは差し迫った緊迫感が伝わるが、当時の日米が置かれた状況を思い起こせば納得もできた。日本の年間の自動車生産台数約1100万台の内、輸出は半分以上の約560万台を占め、しかもその約四割が米国向けだった。低燃費の日本車の攻勢に音を上げた米国には81年から輸出を自主規制したが、84年は大統領選挙も重なり俄かに政治問題化していた。
この洪水のような日本車の輸出を目撃したのが若き日のトランプで、その立役者の一人がトヨタ自動車の加藤だった。そして彼に菅原は語り口を強めてこう迫っている。
「社長在任中、あなたは米国民の感情に配慮してサンベルト・デキシー号に協力してくれた。それに対しては幅広く好意的な反応があった」「トヨタがその2隻目の実現に向けて優先して検討するのを望む」
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