本人たちが明かす「こまどり姉妹」刃傷事件、始まりは“血判ラブレター”

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末期がんも克服

 こまどり姉妹は昭和13年、北海道の厚岸(あっけし)町で生まれた。父親は炭坑夫。終戦後は小樽市銭函の木賃宿や倉庫で暮らしていた。父親が結核で働けなくなると、両親は闇米を売り、漁港に落ちているニシンを拾って、食いつないだという。

「食べ物が尽きると、私たち姉妹は外で草を食べていました。私たちには栄養がないから、ノミすら全く寄ってこなかった」(同)

 家賃を何年分も滞納し、夜逃げ同然で一家は釧路に。そこで駅のベンチや橋の下で寝泊まりしながら、始めたのが歌の「流し」だった。

「私たちも11歳で小学校をやめ、歌い始めました。12~13歳の時、飲み屋のお姉さんから“東京に行ったら、美空ひばりちゃんに会えるかもしれないし、もっと稼げるんじゃないの?”と言われ、その気になってしまった」(栄子さん)

 一家が東京に辿り着いたのは昭和26年。山谷の安旅館を拠点に浅草で流しを始め、糊口を凌いだ。そんな生活を7年ほど続けた時、彼女らに転機が訪れる。お座敷で明治座の社長の目に留まり、彼を通じて日本コロムビアの社長に巡り合ったのだ。歌手デビューを果たした姉妹がその後、スターダムにのし上がったのは先に述べた通り。その成功物語を暗転させたのが鳥取での惨劇だったのだ。

「この数年前に社会党の浅沼稲次郎や力道山も刺されて死んでいる。“私も死ぬんだろうな……”と悔しい気持ちで一杯でした」(敏子さん)

 左腹部の傷の深さは20センチ以上。搬送先の病院で4時間に及ぶ大手術が行われた。輸血量は実に800CC。敏子さんはかろうじて一命を取り留めたのである。

 犯人は鳥取在住、農業手伝いの18歳の青年だった。

「警察の人から“彼が『出所したら、絶対殺してやる』と言っている”と教えられたもんですから、余計怖ろしかった」(同)

 ちなみに4年で出所した男は、その翌年、事件と同じ日の5月9日に実家の裏山で首吊り自殺を遂げた。

 敏子さんの入院中には、税理士が国税庁に納税する金を横領し、8000万円もの税金が滞納状態になっていることも発覚した。

「税金分を稼ぐためにキャバレーで歌いました。ギャラが良くて、これだけで8000万円、すぐに払っちゃいました。でもそのキャバレー回りのイメージのおかげで、紅白には出られなくなっちゃったけどね」(同)

 しかもその後、敏子さんは子宮がんに倒れた。

「肺に転移しており、末期がんでした。医師からは余命1カ月と宣告された」(同)

 しかし姉の栄子さんが貯金をはたき、所有不動産も売却して治療費を捻出。その甲斐あって、奇跡的に敏子さんはがんから生還した。

 とはいえ、襲撃事件後は、不幸の連続だったわけだ。

「でも、おかげさまでがんの再発はなく、今は元気でやっています」(同)

 栄子さんも、

「どん底まで落ちてますから、何を見ても嬉しいし、楽しい。この夏は東北でコンサートも開きました」

 来年には80歳になるのを機に記念のリサイタルを行う。禍福は糾(あざな)える縄の如し。波乱万丈の人生には今なお生命力が漲っている。

週刊新潮 2016年8月23日号別冊「輝ける20世紀」探訪掲載

ワイド特集「芸能史に刻まれた『衝撃ニュース』の主役」より

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