牛と伝統空手を倒した「大山倍達」 妻子を残して山籠もり
笹川良一との邂逅
修養を重ねた大山が世界に目を向けるきっかけとなったのが、アメリカでの武者修行だった。終戦から7年後、昭和27年のことである。
当時のアメリカはプロレス全盛期。東洋系レスラーとして知られたグレート東郷に付き添っての米国巡業だったが、次第に大山は耐え難くなった。
「父が負ける約束だったのに、いざ試合が始まると我慢ができなくなってきて、逆に相手を倒してしまって。そのうちに、自分たちで興行をしようという気持ちになったようです」(同)
ついには、ラスベガスなどでの自主興行を含め、全米32カ所で空手演武を披露し、7回に及ぶ真剣勝負で勝利する。
米国で成功した「マス・オオヤマ」は、“逆輸入”されるや、敗戦の記憶なお濃い日本の民衆のなかに強い共感を呼んでいく。
一方で、伝統形式を重んじる日本社会には、当然、根強い抵抗もあった。それまでの寸止めや型重視の空手道に対し、大山が持ち込んだ真剣勝負のフルコンタクト空手は、順調に門弟を増やしたものの、戦後のフィクサー、笹川良一率いる全日本空手道連盟ににらまれた。
「もちろん、誰からかは分かりませんが、当時はいろいろな嫌がらせと笹川先生との対立も重なり、怖くて……」(同)
そもそも笹川との関係には、伏線があった。大山の有力な支援者を通じて、ある打診があった。
「3億円で、という話があったんです。昔の3億円ですから相当な額だったでしょう。つまり、笹川さんとしてはそれで極真会館を買収したかったようです。しかし、父はそれを断り続けました」(同)
以来、笹川との確執が深まった。しかし、応じていれば、フルコンタクト空手の隆盛はなかったかも知れない。転機は不意に訪れた。
大山らが独自に主催する、全世界空手道選手権大会の第3回大会(昭和59年開催)でのこと。場所は北の丸公園の日本武道館だった。歓声に沸く館内が突然、静まり、そしてざわめきが広がった。現場に居合わせた喜久子さんも驚いたという。招待状を出したわけでもないのに、側近らを引き連れた笹川が姿を現したのだ。
大山は、招かれざる客人を丁重に迎え入れ、急遽、2階席に特別席を設けさせた。
「笹川さんと父はそれっきり。最初で最後。その場所でも、言葉を交わすようなことはありませんでしたけど、笹川さんにしても、観戦したことで、黙して認めるという、合図だったのでしょう」(同)
共に、負けることは死ぬことだと肝に銘じていたであろうフィクサーとゴッドハンド……。無言の融和が訪れたに違いないのである。
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