牛と伝統空手を倒した「大山倍達」 妻子を残して山籠もり

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 梶原一騎原作の「空手バカ一代」は、昭和46年(1971)に「週刊少年マガジン」誌で連載が開始されるや、未曾有の空手ブームを巻き起こした伝説の作品である。この漫画のモデルとなり、一躍、時代の寵児となったのが、「ゴッドハンド」の異名を持つ大山倍達(ますたつ)。牛をも倒す格闘家が率いる極真会館は、世界123カ国に門弟1200万人を数えるまでに成長した。

 だが、その道のりはむろん平坦ではない。大山もまた戦後のドサクサから立ち上がろうともがいていた。平成6年(1994)に肺がんで70年の生涯を閉じた大山は、大正12年(1923)、日本統治下の朝鮮半島で生まれた。戦前、日本に渡航し、山梨県にあった山梨航空技術学校(現・日本航空高校)に入学。拓殖大学を経て早稲田大学に入学するも中退し、22歳の時、日本で終戦を迎えた。拓殖大学在学中に空手と出会っていた彼は、池袋や銀座、新橋など闇市が栄えた場所で、用心棒稼業で糊口を凌いでいた。

「占領軍の前になすすべもなく、日本人がおどおどしている光景にかなり衝撃を受けたようでした」

 と、大山の三女、喜久子さんは明かす。

 だが、敗戦直後の日々は、実践を重視する大山の哲学にも繋がっていく。極真会館の前身である大山道場時代の大山を知る盧山(ろうやま)初雄氏が話す。

「正義なき力は単なる暴力だが、力こそ正義だ。勝負にはとにかく勝たなければいけない。負けることは死ぬことを意味すると、先生はそう説いていました」

 当時の道場は、池袋の立教大学そばのアパートの一室。30坪程の広さで、以前はバレエスタジオとして使われていたという。

「空手バカ一代」はまだ世に出ていなかったが、すでに空手の達人としての大山の名前は広く知られていた。盧山氏が入門したのは昭和38年、高校1年の時だった。

「世の中で一番怖いものは何かと訊かれ、先生は、飢えだとおっしゃったことがありました。終戦直後の日本は、皆生きるためには何でもやった時代でした。しかも無政府状態ですから。そんな時代に生きたからこそ、力こそすべて、という哲学にたどり着いたのかもしれません」(同)

 大山は道場を開くのに先立ち、空手家としての脱皮を目指して、千葉・安房郡の清澄山に修行に入る。昭和23年、甘い余韻が醒めやらぬ結婚直後に、妻を残し、山に籠もってしまう。妻・智弥子はやむなく、清澄山から遠くない、房総の海岸で生活を始める。

 喜久子さんは晩年の母から当時の様子を聞かされた。

「板一枚の掘立小屋のようなところに放っておかれて。しかも、母はすでに長女を身籠もっていたんですけど、父はそれを知らずに山に入ってしまった。ある時、山から下りてきたら、子供が生まれていて、そして、その次に山から下りてきたら、言葉が話せるようになっていた長女が、“ママー、知らないおじちゃんが来ましたよー”と出迎えたというのです」

 赤子を抱いて食糧を求めて歩く智弥子の姿に、地元の人々は、慈悲とも好奇ともつかない視線を投げかけ、こう囁いた。

「旦那さんがいないのね」

 子育ての辛さとひもじさに耐えかねた智弥子が、不意に、山に籠もる夫を訪ねたことがあった。ところが、大山はそっけない。

「よく来たね、と言って、二言目には、さあ帰りなさい、です。母はすぐに山を下りるように促されてしまって……」(喜久子さん)

 理由は、妻がスカートを穿いていたことだという。修行中の彼にとっては煩悩を刺激しかねないというわけだ。しかし、妻をも寄せ付けぬ山籠もりの末、大山は拳で牛の角を折り、素手で屠(ほふ)るほどの力を身に付けた。倒した牛の数、実に47頭。

「右足の親指の爪は、牛に踏まれ、ひどく潰れていました。砂地の上だったので指は落とさず済んだようですが、速く走ることはできなくなっていました」(同)

 心身の充実はピークに達していた。

「山から下りてきた時には、電柱でさえ倒せる気がしたと、そう言っていました」(盧山氏)

 実際、喜久子さんは姉からこんな話を聞かされたことがあった。

「当時の電柱はまだ木製だったんですが、父が正拳突きすると、電柱の上からポトポトッて、衝撃で気絶したスズメが落ちてきたって。そして電柱には拳の痕が残っていたそうです」

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