「大屋政子」夢の跡 病床でも浴衣にコマンドール勲章

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英ロイヤル・ファミリーとも交流

 昭和31年、晋三は政界を引退し、帝人社長にカムバック。業績不振の帝人の再建に成功し、亡くなる85歳まで社長として君臨した。

「大屋晋三=帝人」をバックに、政子の事業は最盛期を迎える。35年に「四条畷(しじょうなわて)カントリークラブ」、48年には奈良で「室生ロイヤルカントリークラブ」など名門ゴルフ場を経営。「おとーちゃんのために」建てた「帝塚山病院」は、当時は西日本で初めての人間ドック施設だった。

 この時期、政子が最も情熱を傾けたのは若い頃から愛してきた、バレエやオペラだった。51年、自らの名を冠した世界的なバレエコンペティションを大阪で開催。私財をなげうって支えていく事業となった。

 政子の文化活動は海外で評価され、54年にはフランスの芸術文化勲章コマンドール章勲一等という、後に北野武監督が授与されるのと同じ勲章を受賞する。

 55年、晋三が亡くなると同時に、帝人との蜜月は終わる。死去直後から、政子の会社経営に携わった鉄村俊夫氏は言う。

「帝人との共同事業など、その絡みを清算していくのが、私の仕事でした」

 鉄村氏はこんな言葉を何度も聞いた。

「帝人がこんなに大きくなったのは、おとーちゃんのおかげや。そんなん、棒引きしてもええんやないか」

 鉄村氏が慨嘆する。

「帝人に金を返す必要はないと吹き込む悪い人間がいたこともあり、室生の利益は借金返済ではなく、海外投資へどんどん回された」

 平成2年(1990)にはパリ郊外に敷地30万坪のシャトー付きのゴルフ場を購入。ルイ14世の愛人の城という17世紀の建物で、これをバス・トイレ付きに改築し、4ホールのゴルフ場も18ホールに増設してのオープンだった。イギリスでも27ホールのゴルフ場を買い、合わせて50億円を注ぎ込んだ。

 このフランスのお城で政子は頻繁にパーティーを開く。そこに集う顔ぶれたるや、ミッテラン大統領にその夫人など、錚々たるセレブリティばかりだ。

 鉄村氏は晩年の政子と一緒に、フランスを度々訪れた。

「日本の首相の名前を知らんでも、フランス人は大屋政子を知っていた。文化人ですよ。城を持っているから、非常に尊敬されていました。ステータスが違う」

 オペラ座では館長が直々に出迎え、最前列の真ん中に「大屋ボックス」という指定席もあった。

 イギリス王室からもパーティーに招待され、エリザベス女王と交流をもった。

 しかし、この時期、軋みも表面化する。平成9年、帝人が室生に会社更生法の適用を申請。同時期、会計責任者が横領で逮捕された。

「すごい倹約家でありながら、“海外へ3000万、送金してや”と、どんぶり勘定。会計責任者に、鞘を抜かれても全然気づかない」(同)

 倹約家とは意外な評だが、登史子さんもこう述懐する。

「母は昔、列車に乗ると、網棚の雑誌や新聞を拾い集めてきて、それで家の風呂を焚いてました」

 家では無口で、浴衣姿で過ごした。大好物は、「うどんすき」。夜中に冷めたうどんをすすっては、「これが一番、おいしいねん」。彼女の「素」の姿だった。

 室生のゴルフ場を売却するなどして、倒産こそ免れたが、海外資産の全てが赤字。鉄村氏によれば、買値50億が、「イギリスのゴルフ場は5億。フランスにいたっては1億を切って」ようやく売れた。それも従業員の未払い給料に消えた。

 末期の胃がんの病床にあっても政子は浴衣に、コマンドール勲章をつけていた。「医者になめられたらあかん」からと。それは19歳で味わった屈辱を晴らすためか、それとも手にした「夢」を誇示するためだったのか。

 現在、帝塚山病院に加え、700坪の自宅は有料老人ホームとなり、政子の「遺産」はしっかりと地域貢献を果たしている。

週刊新潮 2016年8月23日号別冊「輝ける20世紀」探訪掲載

ワイド特集「20世紀最後の真実 伝説となった『偉人』『怪人』列伝」より

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